土讃線開通と増田穣三
「土讃線ルート」の決定には、増田穣三が大きな政治力を発揮したとされている。
その一例として次の新聞記事を見てみよう  
 「四国の群像69 増田穣三 土讃線ルートに政治的手腕」
              (朝日新聞1981年7月19日)
ドドーン、ドン」空に花火がこだまし、芸者の手踊りや花相撲が繰り広げられ、夜のちょうちん行列に琴平の町は三日間にわたる祝賀行事でにぎわった。香川県内の土讃線琴平-讃岐町田間の起工式があった大正9(1920)年4月1日のことだ。当時土讃線のルート決定に際し、以下の3案を巡り激しい陳情合戦が展開された。
1 高松から清水越えで徳島県脇町ー池田に至るルート。
2 西讃の観音寺ー池田間。
3 中間の琴平ー池田の現路線
それぞれの関係町村は地元選出国会議員を先頭に徳島県側の町村と連携し、鉄道院・国会へあの手この手の猛運動を続けた。それが現在の路線に決まった裏に。仲南町出身の増田穣三の政治的手腕が大きく影響した。
 中略  
増田穣三は、香川県議になって住居を高松市に移し、第十三代県議会議長を務める。次いで衆院議員へと、舞台が大きくなるにつれ、策士ぶりを発揮した。土讃線のルート決定に先立つ明治32,3年ごろ、徳島ー池田間の軽便鉄道敷設権を、徳島県出身の内務大臣らが取得した。これが実現すれぱ、香川県からの土讃線ルートも大きな影響を受けた。そこで、善通寺にあった旧陸軍十一師団の乃木希典師団長に「徳島ー池田軽便鉄道敷設に異議を唱えて欲しい」と申し入れた。
 土讃線が琴平ー池田ルートに決まった理由の一つに善通寺第十一師団と金刀比羅の存在が挙げられる。それだけに、軍部の意向をくんだ増田穣三の政治判断がルート決定に大きな影響を与えた。
 と、当時の路線決定の経緯を紹介した上で「現路線に決まった裏に、増田穣三の政治的手腕が大きく影響」と評価している。

 この記事の下敷きになっているのが従兄弟の増田一良(いちろ)によって語られた回顧談である。

 増田一良は、譲三の15歳年下の従兄弟になる。
二人は旧仲南町春日出身で、一良が増田家本家、穣三はその分家の跡継ぎの関係だ。一良は譲三の後ろ姿を追いかけるように、七箇村村会議員を経て村長・県会議員へと進み、地域の発展に貢献した。さらに譲三が師範であった未生流の活花や浄瑠璃の弟子でもあり、ふたりのつながりは、地縁・血縁的なもの以上に深いものがあった。
 その増田一良が、晩年に増田穣三について語った回顧談が仲南町史に収められている。土讃線誘致に関する部分を見てみよう。  

「塩入駅名の弁」(仲南町史1008P)で、増田一良は次のように述べている

土讃鉄道の建設については激烈なる競争運動あり。当時の記憶をたどり述べんと思う。
此の鉄道には3線の候補ありて、東讃方面は高松から清水峠を経て徳島県脇町に出て西、池田に至る線、仲讃としては多度津琴平間既成鉄道あるを以て琴平町を起点とて塩入越を経て池田町に至る線、又、西讃に於ては観音寺町より曼陀越を経て池田町に至る線にして、何れも帝国議会及鉄道院に請願陳情、国会議員間も亦、百方手を尽したるものにして東讃は高松選出田中定吉代議士を基とし、東讃選出代議士外有志、中讃にありては仲多度郡選出増田穣三代議士を首とし綾歌郡選出大林森次郎代議士及丸亀市選出加治寿衛吉代議士外有志、西讃に於ては三豊郡選出松田三徳代議士を首として、元代議士高橋松斉氏、観吉寺町長西山影氏外有志等、特に松田氏の如き所属政党を脱し鉄道院総裁後勝新平伯の傘下に走るなど、激烈な誘致合戦の末に、現路線に決定した。
 この回顧談にはいくつかの疑問点が出てくる。それを洗い出してみよう。

 第一に「土讃線」誘致合戦が行われた時期はいつなのか

1889 明治22年5月 讃岐鉄道琴平~多度津開通 
1890 高松・阿波脇町間の鉄道建設計画で実地調査の結果、
   脇町線建設は困難との調査報告が柴原知事より提出(讃岐日報) 
1893 鉄道院が線路調査に際して、高松-箸蔵間は猪鼻線として計上
1912 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 
1914 徳島線が延長し池田まで開通し、阿波池田駅設置。
12月二個師団増設案成立のために大浦内相が政友会議員に買収工作実施
1915 3月 第12回衆議院議員総選挙で大浦内相による選挙干渉激化
    白川友一・増田穣三共に当選後に大浦事件に関わり逮捕・拘束
    9月 第9回県会議員選挙実施 増田一良 次点で落選   
1916 1月 白川友一衆議院議員の当選無効確定し補充選挙実施
1917 12月 塩入線鉄道期成同盟会をつくり貴衆両院へ請願書提出
 塩入線の速成を貴衆両院へ請願書提出することとなり塩入線鉄道期成同盟会をつくり会長に堀家嘉道副会長に沢原頁岩を選定した。(町史)
1919 3月 琴平-土佐山田間が鉄道敷設法第一期線に編入=路線決定
   9月 県会議員選挙で増田一良初当選
1920 1月 実測開始、豊永を境とし、土讃北線は多度津建設事務所担当
  4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)

この年表からは
1917年に塩入線鉄道期成同盟会設立、
1919年には路線決定、
1920年工事開始という動きが分かる。すると誘致合戦が行われたのは1917年前後から本格的に動き始めたようだ。  

 まず路線決定を行う鉄道省の思惑を見ていきたい。

 鉄道省は琴平起点の土讃線ルート(財田猪ノ鼻線)を早い時期から本命と考えていた。その背景には、
第1に、1889年に鉄道が琴平まで延びていること。
第2に、第11師団が善通寺に置かれていること。
第3に、池田ー財田間がもっとも山間部が短く、かつトンネルの長さも短くてすむこと
第4に、四国新道沿いであり工事にも利便性が高いこと
など、外のルートにくらべて優位性が高く早い段階からこのルートを「既定路線」として考えていたようだ。それを裏付ける記述がまんのう町周辺の町誌にいくつか見いだせる。
例えば財田町誌には、琴平まで鉄道が開通した段階で「四国新道」沿いに池田に通じる「猪ノ鼻ルート」建設が当然とされており、そのための誘致運動を行った記録はない。増田穣三や一良が行ったという塩入ルートに関しては「そのような誘致運動があったことは、仲南町誌を見て知った」と記されている。
 また三好町誌や池田町誌にも1914年に開通した徳島線が、池田で土讃線と結ばれることは当然と考えられていたことが記されている。三好側が七箇村塩入と箸蔵を結ぶ塩入ルート建設運動を働きかけた見当たらない。

 仲多度に設立されたという「塩入線鉄道期成同盟会」も、

「塩入線」と名付けた運動団体の存在を示す当時の新聞記事や資料などから私は見つけ出すことが出来ない。その名前があるのは仲南町誌のみである。鉄道促進運動を担った仲多度地区の議員達は「猪ノ鼻ルート」を念頭に置いて運動を行っていたように見える。誘致運動で「塩入ルート」を考えていたのはごく一部だったのではないか。 

最後に、誘致運動が佳境であった1917年前後の増田穣三の置かれていた政治的な状況を見ておこう。

譲三は、前々年に衆議院議員総選挙後の大浦事件に関わり白川友一等と共に逮捕・拘束されている。白川友一は議員を失職。その後、穣三は不起訴には終わったが同僚の政友会の議員を政府資金を用いて買収を行ったという事実は残った。政友会の同僚議員の目は冷たかった。このような中で表立った政治活動を行うことは難しく「政治的謹慎状態」が続いていた。そして、次期総選挙には出馬せずに政界からの引退という道を選ぶことになる。このような中で「塩入線誘致運動」の先頭に立って旗振りを行う状況にはなかったと思われる。
 つまり「塩入線誘致合戦」に増田穣三が積極的に動ける状態ではなかった。一良も1915年の県議会初挑戦では落選しており、誘致運動が展開された時期には県議会議員ではない。
 以上のような背景を考慮に入れると「塩入線鉄道期成同盟会」→ 増田一良 → 増田穣三 を通じて誘致運動が増田穣三を中心に推し進められたという状況は考えにくい。  

増田穣三が乃木希典に土讃線建設について要望陳情を行ったという話について

  乃木希典は1889年(明治32)年に善通寺第11師団長に就任。一方、増田穣三は3月に県会議員に初当選し、4月に七箇村長にも就任している。穣三は七箇村村長として、設置が決まったばかりの善通寺第十一師団の練兵場建設に「援助隊」募り派遣した。その助力に対して師団より村長宛の感謝状をもらっている。各施設の建設が進む中で、師団長として陸軍中将乃木希典が任地に善通寺に赴任する。この時期、穣三は県議会の副議長や参事議員を務めており、公的な行事で乃木師団長と出会うこともあり顔見知りとなっていたことは考えられる。
 土讃線に関する陳情が行われたとすればこの時期であるが、前述したようにこれは土讃線誘致運動の時期よりも十数年早い段階のことである。土讃線誘致にからんで乃木希典に陳情を行ったということないようである。しかも、陳情を行ったのは土讃線のことではなく、徳島線に関することである。   
増田一良が回顧している徳島ー池田軽便鉄道敷設権について見ておきたい。
此時最も難問題として起たのは徳島県出身の元内務大臣、芳川顕正伯の主唱によって徳島、池田間に軽便鉄道敷設権が認可されたことだ。これ実現すれば香川県よりの三線ともその影が薄くなり大いなる影響を及ぼすことが考えられる。そのためこれを打破する事が最も重要となった。しかし貴衆両院通過成立したものを取消す事は勅命によるか参謀本部の異議による外道なく窮余の考として堀家、三谷、松浦、増田等共に第十一師団を訪つれ参謀長に面談協力を求めた。しかし、乃木閣下は軍人が政治に容喙するは良くないとの信念を待ち、「吾々は何共申上兼ぬるか資格を離れ個人としては高知との短距離の結び付は固より望む所である」との事にて期待した回答を得ることは出来なかった。また、これも増田代議士へ報告せり。
 其後伝聞する所によれば乃木中将上京となり参謀本部の抗議によりたる者か徳島池田間軽便鉄道は実現を見す沙汰止となれり。
  一良の回顧談の「此時最も難問題として起た・・・」の部分は「塩入線誘致運動」に続けて載せられている。最後の部分が「また、これも増田代議士へ報告せり。」で終わっているために塩入線誘致の際のことと誤解されやすいが、これは乃木師団長在任中のことであり、誘致運動佳境の十数年前のエピソードである。
 しかも、内容は徳島線の軽便鉄道敷設権認可に関わることである。その後、徳島線は1914年に池田まで開通しており、土讃線の路線決定に影響を及ぼす要因とはなっていない。あるとすれば池田で土讃線と結ばれるというのが鉄道院の既定路線であったということである。
 長々と述べてきたが以上から推察すると、「増田穣三が土讃線のルート決定に大きな政治力を発揮した」「塩入線誘致運動を進めた」ということを裏付ける史料は、穣三の従兄弟の増田一良が「仲南町誌」作成の際に語ったことに基づくものに限られるようだ。「塩入ルート」が、路線検討の対象となったかどうかは、今後の検討課題としたい。  

  一良は自分の回顧を次のように閉めている

欺の如くして獲得したるものにして塩入と云う名の広く知れ渡りたる関係上、福良見、小池、春日の三部落を隔たて一里以上離れたる十郷村帆山に設置されたる駅の名を塩入と名づけたるは増田穣三の銅像を駅構内に設置と共に意義を得たるものにして適当なる所置と信す。
 尚ほ塩入線の決定に附ては第十一師団の軍事上の観点と金毘羅宮の所在地琴平町を起点とする所に潜在の大なる力のありたる事を認むべきと思ふ茲に其経過関係の概要を述べて参考に資す。                     増田一良回顧談 昭和四十年六月