増田穣三の同期代議士 三土忠造と白川友一について

 日露戦争後の1907年(M40)は、増田穣三にとって大きな岐路に立たされた年であった。まず、前年1月に5年間務めた讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)
 続いて、3月には七箇村村長を退任。そして、翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず8年間にわたる県会議員時代にピリオドを打つ。村長・県会議員・社長という公職を全て辞してどこへ向かおうとするのか。譲三49歳である。

 その後、5年後の1912年(明治45・大正1年)5月)に行われた第11回衆議院議員選挙出馬までの足取りをたどる資料が見つからない。何をしていたのか分からないのだ。ミッシングリングである。今後の課題としたい。

 電力会社経営の失敗を背負って「傷心の日々」だったのか?
 いや、未生流華道の家元として中讃から、阿讃の山を越えて三好方面へ出稽古に出向き、浄瑠璃をうなる日々を送っていたのかもしれない。これで、政治家生命も絶たれて「引退」と思いきや、もう一度出番が訪れる。
1912年 三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制であった。この時、政友会から初当選したのが三土忠造・白川友一・増田穣三の3人であった。
この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、
併合前の韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。その能力を買われて伊藤の勧めで総選挙出馬のために職を辞し帰国し政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
 三土を支援したのが多度津の景山甚右衛門である。景山は、これを機に衆議院議員を「卒業」し、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。三土は「洋行帰りのニューフェイス」であり、「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」というので評判が良く二位で当選している。この後、三土は当選を重ね政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していくことになる。
 ちなみに、三位当選したのが増田穣三。丸亀市区から当選したのが白川友一であった。
まんのう町造田出身の衆議院議員 白川友一について
白川友一

 白川友一は1873年(M6)6月11日、まんのう町(旧琴南町)造田出身で父安達小平太、母カノの四男として生まれた。譲三よりも15再年下になる。友一が生まれたときに父小平太は讃岐における明治期最大の民衆蜂起である「西讃血税一揆」の指導者の嫌疑をかけられ入獄中で家計困難な状態にあった。そのため友一は「進学」を条件に養子に出て白川姓を名乗ることになる。立身出世のための勉学への道を諦めずに歩み通し、朝鮮での投資活動に成功し銀行家として地盤を固めていた。
 譲三と共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)
二人は「同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていく。そして12年後の明治45年には、そろって衆議院議員に初当選する。譲三の「政治パートナー」して、歩むことになる白川友一について年表で見ておこう。
873年(M6)6月11日、(旧琴南町)造田で生まれる。
1885年12歳で小学校修了。
     成績優秀のため卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子となる。
     しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年15歳で陸軍の予備校だった成城学校幼年科に入る。
     幼年科・青年科を修了。何回も士官学校の入学試験を
受けたが、身体検査で不合格となる。
1892年父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白川家の養 子となり、雪泳と結婚。
21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長となり、次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
1899年26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
 日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業などさまざまな事業経営に乗りだし、日露戦争後には、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功を得る。
丸亀ー下津井間の「金比羅参拝ルート」の賑わい保持を目的に下津井鉄道会社設立時に筆頭株主(500株)として、初代社長に就任
その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進めた。
1911年(M45)5月の第11回選挙で衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法助成法」が成立するが、この成立の中心的な役割を果たしたのが、「衆議院一年生」の白川友一である。「下電社長」という立場から全国の中小の鉄道会社の要求をまとめたもので、この法案成立の結果、全国に続々と生まれつつあった軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。この他「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に彼が「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っており、政治家として数々の業績を見ることが出来る。
白川友一
下電下津井駅(跡)の白川友一像
  これに対して譲三の国会での痕跡は、ほとんど残っていない。
彼の国会での質問等について国会図書館に資料検索してもらったが出てこない。国会においても県会と同じくで「寡黙な議員」であったようだ。

大浦事件と白川友一

 しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。これに対して大浦兼武内務大臣は、衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明する。その政友会の切り崩し舞台の中心となったのが白川友一であり、盟友の増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束され、白川友一は翌年には議員を失職し、政治声明は断たれた。
明治37年香川新報発行
「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」の中の白川友一の紹介
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。

大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には
「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」
という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では
「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」
「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」

の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、
「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」
「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動
首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」
との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、
「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、
その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。この記事の中の「香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)」は、白川友一である。
後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 3記事共に「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」

 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
  「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」 
      所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
     「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年
       「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」