明治37年に「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という本が出版されている。


当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を1人2Pで風刺を効かして紹介したものである。その中に増田穣三も次の肩書きで紹介されている。これを見ながら、増田穣三の県会時代を垣間見てみよう。

讃岐電気会社社長 県参事会員 増田穣三先生
躰幹短小なるも能く四肢5体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いて讃岐電気会社社長たる地位を表彰す、増田穣三先生も亦好適の職に任じられたるもの哉。
村長としての先生は夙に象麓の柳桜を折り、得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの、出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざるも、萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なきは八百屋の献立の太郎兵衛に肖、また7段目の平右衛門に類するなきが、而かも先生義気の横溢する、
知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、当に作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る、事茲に及びて侠名豈獨り幡随院長兵衛の占有物ならんや。義気将に畠山庄司重忠の手に奪ふを得べし。
入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必
先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か、伝説す頃者玉藻城下に於いて頻りに其美音を発揚するの機会を得と、真ならんか羨望に堪えざる也。妄言多謝
まずは増田穣三の風貌が「躰幹短小」「秀麗の面貌」「鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪」と簡略にが描写されており興味深い。
「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」は、若い頃に徳島からやってくる人形浄瑠璃に魅せられて興味を持ち、玄人はだしの腕前であったと伝えられる。また、華道(未生流)も若くして免許皆伝の腕前であった。風流人としての「粋さ」が伝わってくる。 県会議員としては「萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なし」というのが増田穣三の流儀のようである。
しかし、議会内の活動状態については「先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か」と紹介している。また、「香川新報」も「県会議員評判録」で「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」と、議場における寡黙さを強調する言動が記されている。
県会での政治的立場としては「知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る」と裏工作には積極的に動いたようだ。同期初当選である丸亀出身の白川友一議員とともに堀家虎造代議士の下で、様々な議会工作に関わったことがうかがえる。
例えば、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の指導下に実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一 ではなかったのか。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないか。
この本が出版された翌年M38年11月 穣三は県会議長に選任された。
穣三が議長に選出された11月1日の第7回通常県会の模様を香川県会史は、次のように記している。
穣三が議長に選出された11月1日の第7回通常県会の模様を香川県会史は、次のように記している。
山田利平太(綾歌郡)は議長に増田穣三(仲多度)を指名し、全員が異議なく了承。議長に推薦された増田穣三が「諸君のご推薦にあずかり議長の職を汚します。補佐あらんことを希望します」とあいさつをした。その後、副議長選出については議会の承認のもと、増田穣三議長が佐野新平(大川)を指名。また、名誉職参事会員も同様に6名を指名 香川県会史(990P)
そして次のような議題が新議長の下で審議された。
1 小野田元煕知事の議案説明
2 粟島海員学校・丸亀女学校・高松商業等4校の県立移管問題 財政上延期かどうか
3 女学校の寄宿舎建設延期
4 職員の給与増額
5 韓国への漁業者移住促進
議員としては「口数が最も少ない議員 議場外での裏工作が得意」と表された穣三であるが、議長としての議会運営ぶりはどうだったのだろうか。次のような資料が残っている。
中学校寄宿舎の建築問題をめぐって、建設積極派と建設消極派が協議を重ねた。
この時、膠着した事態を打開するために、増田穣三議長自らあっせんに乗り出して、異なる二つの意見の調整に努めた。その結果、建設を進める方向で話がまとまり、長年、結論が出なかったこの問題は、一気に議決へと向かった。実直かつ寡黙な議長であり、議員から「1つ1つの審議に時間がかかりすぎる。もう少し手際よく進めてほしい」との要望が出るほど、丁寧な議事進行を心がけた。丁寧な議会運営に心がけ、対立点を見極めた上で妥協案を示すソフトな対応ぶりがここからはうかがえる。
順風満帆な議員生活とは半面、「電気痛の痛苦」が穣三に襲いかかってくる。
当時、彼が関わっていた当時の新産業「電灯会社」誕生までの苦難と、彼の経営者ぶりを次回は見ていくことにしよう。
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