行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて
原付バイクで室戸岬を五日かけて廻ってきた。「あてのない旅」が目的みたいなものであるが、行当岬には立ち寄りたいと思っていた。ここが辺路修行者にとって、室戸岬とセットの業場であったと五重来氏が指摘しているからだ。

五重氏の辺路修行者の修行形態に関する要旨を、確認のために記しておきたい。

修行の形態は?
1 行道から補陀落渡海まで辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬。
3 そこでどういう修行をしたか。一つは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ること。
4 お寺が建つさらに以前のことだから辺路なら海岸に入ると、建物はない
5 弘法大師が修行したと伝わって、その跡を慕って修行者がやってくる。
6 そういう人々のために小屋のようなものが建つ。そして寺ができる。お寺でなくてもお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
7 やがて留守居が住職化することによって現在のお寺になる。
8 鎌倉時代の終わりのころは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 弘法大師が修行したころは建物などはなかったので、窟に籠もった。
10 最初の修験道の修行は「窟龍り」であった。

修行の形態のひとつが行道。行道とは何か?
1 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回る。
2 円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いている。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行っている。
3 窟脂り、木食、行道をする坊さんが出てくる。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。明治十七年(一八八四)に那智の滝から飛び下りた林実利行者もそのひとり。
5 辺路修行では海に入って死んでいく。補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。熊野の場合も水葬。それまでに、自殺行為にも等しい木食・断食があった。

辺路修行では、不滅の聖なる火を焚いた
1 辺路の寺には龍燈伝説がたくさん残っている。柳田国男の「龍燈松伝説」には、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだと結論。
2 阿波札所の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。
3 それが柴灯護摩のもと。金刀比羅の常夜灯、淡路の先山千光寺の常夜灯は海の目印、燈台の役割。
4 葛城修験の光明岳でも火を焚く。『泉佐野市史』には紀淡海峡を航海する船が、大阪府泉佐野市の大噴出七宝滝寺の上の燈明岳の火を闇夜に見ると記載。
5 不滅の聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。
6 それが忘れられて、龍神が海に面した雪仏にお灯明を上げるに転意。

室戸岬と行当岬
1 室戸では室戸岬と行当岬に東寺と西寺があって、10㎞ほど離れている。
2 室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えて東寺・西寺と名付けられた。
3 その中間の室戸の町に、平安時代の『土佐日記』に出てくる津照寺がある。
4 ところが、それは無視している。平安時代は、東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
5 火を焚いた場所にあとでつくられたのが最御崎寺(東寺)。
(注 金剛福寺の方が古いことに留意)

6 行当岬は、現在は不動岩と呼ばれている。
7 もとは行道という村があり、船が入って西風を防ぐ避難港だった。
8 その後、国道拡張で追われて、いまは行当岬の下のほうの新村に移動。
9 行当岬は「行道」岬。波が寄せているところに二つの洞窟があった。辺路で不動さんをまつって、現在は波切不動に「変身」
10 調査により二つの行道の存在を確認。西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩の行道を「小行道」と呼んでいる。
11 四国全体の海岸を回るのが「大行道」。

12 二つの洞窟のうちで虚空蔵菩薩を祀った虚空蔵窟は東寺が管理しているので、かつて東寺と西寺がひとつになって祀っていたと推察可能。
13 現在では西寺を金剛頂寺と呼んでいるが、平安時代は西寺と東寺を含めて金剛定寺と呼んでいた。
14 足摺岬の場合は、金剛福寺のある山は金剛界。灯台の下には胎蔵窟と呼ばれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているので、両方を回る。
15 密教では金胎両部一体だとされるが、辺路の場合はそういう観念的なものではない。頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで回るから一体化する。

辺路修行者と従者の存在
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。安宅聞で強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居(「勧進帳」)の場面からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

室戸岬にも、弘法大師に食べ物を世話した者がいた。
1 室戸で弘法大師を世話した者が御厨明神(御栗野明神)にまつられる。厨とは台所のこと。御厨明神にまつられた者は、弘法大師が高野山に登るときに高野山に従いていった。
2 御厨明神は弘法大師に差し上げる食べ物を料理する御供所に鎮座。江戸時代は地蔵さんになる。弘法大師に差し上げるものを最初に「嘗試地蔵」に差し上げて、毒味をした。
3 室戸岬には、洞窟が四つ開いている。右から二番目の「みくろ洞」は地図では「御蔵洞」と表記されているが、もとは「みくりや洞」といって、そこに従者がいた。
4 左端の弘法大師が一夜で建立したという洞窟は、昔は虚空蔵菩薩をまつっていた。そのため求問法持を修したのは、この洞穴ではないか。
5 右端の洞窟は神明窓。現在は「みくろ洞」には石の神殿があって、不思議なことに天照大御神を祀っている。その次のところは何もない。
6 お寺や神社の信仰を、ひとつ前の時代へ、さらにもうひとつ前の時代へとたどっていくと、いまとは違った宗教的な実態がわかってきて、なかなか興味深い。

四国の辺路を始めたのはだれか
弘法大師が都での栄達に繋がる道をドロップアウトして、辺路修行者として四国に帰ってきたとされる。その時に、すでに辺路修行という修行形態はあった。その群れの中に身を投じたということだ。したがって、弘法大師が四国の辺路修行を始めたというわけではない。仏教や道教や陰陽道が入る以前から辺路修行者たちが行ってきた宗教的行為がその始まりといえよう。

不動岩周辺は、室戸ジオパークの西の入口として遊歩道が整備されている。そして深海で生成された奇岩が隆起して、異形を見せている。


海に突き出した地の果てで、行場として最適の場所だったのかもしれない。「小行道」として、不動岩の周りを一日に何回も歩いたのだろう。海辺の辺路の「小行場」のイメージを描くのには、私には大変役だった。 そして、ここを拠点に室戸岬の先端までの「中行道」へも歩き、修行を重ねる。

この行場からは金剛頂寺への遍路道が残っている。

ここで辺路修行者がどんな行を行っていたのか、そんなことをボケーッと考えていると、「どこから来たんな」と話しかけられた。
金剛頂寺の檀家でボランテイアで、ここのお堂のお世話をしているというおばさんである。彼女が言うには
「弘法大師さんが悟りを開いたのはここで。室戸岬ではないで。お寺やって金剛頂寺が本家、最御崎寺は分家やきに。ここが室戸の修行の本家やったんで。」
さらに
「ジオパークの研究者が言うとったけど、弘法大師さんの時代は室戸岬の御蔵洞は海の下やったんで。海の中で修行は出来んわな。ここの不動岩の洞窟は海の上。ここで弘法大師さんは、悟られたんや。」と。

なるほどな・・・。その確信の元にこの絵があるんやなと改めて納得。海の辺路信仰の行場のあり方を考えさせてくれた場所でした。
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