美馬市穴吹町 中野・渕名の天空(ソラ)のお堂を訪ねて、その起源を考える。
端山霊場巡礼を一巡したので、その周辺の天空(ソラ)の集落とお堂めぐりを開始。今回は清流穴吹川の西側の尾根の集落を訪ねてみることにした。

穴吹町から小学校の上の道を登っていく。
中野集落にある仏成寺に御参りして、ここから上へ伸びる道を歩く。

家の前のカヤ場(肥場・肥野・肥山)と呼ばれる採草地から、カヤが刈り取られ、コエグロが作られている。冬の準備が進められている。

茅場の向こうに赤い屋根のお堂が見えてきた。

消防屯所の上の丘に、中野集落のお堂はあった。
登ってみよう。

オレンジ色の屋根が青い空に映える。
お堂は誰が、何のために、いつ頃から立て始めたのだろう?
貞光のお堂が寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が祖谷を旅行した時の紀行文に出てくる。(意訳)
26日、朝、貞光を出て西南の高山にのぼった。その山は険しく岩場もあり、足を痛めた。汗をぬぐいながらようやく頂上に着いたが、そこには五間四方の辻堂があった。里人に聞くと折々に、人々が酒さかなを持って、ここに集り、祈りを捧げたあとに、日一日夜一夜、詠い舞うという。万葉のいわゆる筑波山歌会に似ている。深山には古風が残っているものだと思った。
ここからは集落の人たちが氏堂に集まり酒食持参し、祖霊の前で祈り・詠い・踊るという。祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくる。

吹き抜けのお堂からは、吉野川の河口付近を経て淡路島も望めるようだ。
氏堂の発生については
最初は、景観のよい所を先祖の菩提所として、いろいろな祈りを捧げていた。やがて草葺小堂が建てられ、日ごろからお祈りしている石仏の本尊が安置される。さらに先祖への祈願の建物としてお堂が現れる。

江戸時代のキリスト教禁制とセットになった仏教保護政策とからんで、阿波藩は庶民のお堂建立を奨める。その結果、修験者や僧侶の指導で、経済的に安定してきた元禄時代頃より各集落で建立されるようになった。お堂の棟札からも裏付けられるという。

大きな集落では複数建てたり、7、8戸の小部落でも建てている。競うように各集落で建てらた風潮があったようだ。
当時の庶民負担は大きかったはずだ。にもかかわらず修築、屋根の葺替等が世代を超えて引き継がれてきた。里のお堂が姿を消す中、ソラの集落では今日に到るまで神社とならぶ信仰施設として健在である。

中野堂近くの民家では、庭先に干し柿をつるす作業が始められていた。
お堂を維持する力となったのは祖霊への信仰心。
中祖谷地方では、旧盆のゴマ供養が今に続いている。
那賀郡沢谷では盆には「火とぼし」の行事が行われ、念仏供養をしている。いまはすたれているが戦前までは、お盆にはお堂の庭で「まわり踊」が行われ先祖の霊の供養をしていたという。

次にやって来たのは西山集落のお堂。ここからの展望も素晴らしい。

山村を旅行する場合、宿のない所ではお堂に泊って旅をしたという。現在でいえば無料宿泊所のような役割をはたし、村人もこれを認めていたという。

ソラのお堂めぐりをしていて気付くのは、庚申信仰の影響が見られること。庚申塔や光明真言を何万遍唱えたことを示す碑文が数多く残る。しかし、庚申講を今でも開いている集落は殆どない。

このお堂に導いてくれたことに感謝を捧げる。

いろいろなことを考えながら煩悩まみれのお堂巡りが続く。
参考文献
荒岡一夫 お堂の発生について 松尾川流域の庶民信仰の一端
徳島県郷土研究発表会紀要第18号
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