明治20年 向洞爺開拓団の結成と大久保諶之丞

 この時期、香川県は消えていた。愛媛県と合併され、県庁は松山に置かれていた。三豊選出の県会議員となった大久保諶之丞は、県議会に出席するために松山まで通った。多度津の景山甚右衛門により多度津ー琴平間に鉄道ひかれ、琴平で開かれた祝賀会で大久保諶之丞が「瀬戸大橋構想」をぶち上げたのもこの頃でもある。

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湖畔から洞爺湖を眺める大久保諶之丞
(実際は諶之丞は、この地を訪れたことはない。)

 この時期、旧丸亀藩内の仲多度・三豊郡では北海道への開拓団編成が進められていた。その斡旋委員を務めていたのが大久保諶之丞であり、実務の中心にいたのが三橋政之である。彼は、旧丸亀藩士で藩主のそば近くに使え、維新後は県警察幹部や那珂郡長を歴任した人物である。香川県の復活と共に職を退き、郡長時代より関心のあった北海道開拓に身を投じていく。その考え方や生き様に、興味を抱かせる人物だ。
 彼は大久保諶之丞と入念な計画と協議を行って準備を進め、移住団を編成し団長としてこれを率いる。副団長には実弟の間宮光貴が補佐し、23戸89人が北海道に向けて出発していく。明治20年の春のことである。

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 この開拓団に十郷村(旧仲南町 現まんのう町)で教員をしていた岩倉三代古という人物が、団員として参加し死去するまでの日記を残している。その中に成功地代価分の支払を受けることとが記されていることから、団員の中では特別な身分であったと思われる。
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 開拓団はどのようにして洞爺湖北岸まで旅したのであろうか。
「岩倉日記」には、その旅程が次のように記されている。
明治20年
3月26日 戸長の井上典平からの北海道開拓移住依頼を承諾。
  28日 自宅を出発して丸亀郡役所に寄って生田公より激励を受け、南條町・旅館「筆の山」に泊まる。その道すがら大和屋にて目出度酒肴をなめ、買物を済ませ、人力車で中府に至る。丸亀堀ばたにて支度。
団長の三橋政之君に粗菓献上、代価は30銭、宿代は3銭。牛之助と一緒であった。
  29日「筆の海」で拵えして、午前9時より郡役所で荷造。
     10時20分生田君より餞別15円23銭を受取る。
牛之助と別れ、11時より築島で郡長及び諸係の諸君各村戸長等より離杯を賜わる。花火が上がり、歓声が轟き天を動かした。
     午後3時 丸亀港より平辰丸へ乗船し神戸へ。

 出発に際しては、郡長や戸長からの見送りを受け、送別会も開かれ「公的移住団」の扱いを受けていたことが分かる。この席に大久保諶之丞もいたのだろうか。

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向洞爺の湖畔

以下、神戸からの旅程を簡略に示すと次のようになる

30日 午前3時  神戸港着。駒屋庄五郎方泊。
31日 正午    神戸港から大汽船「新潟丸」(長さ70間、横9間)に乗船。
4月1日 午後4時 横浜港着。船内二泊。
  3日 正午   横浜港出発。
  4日 正午   陸前の萩の浜港に着。大森平助方に宿泊。
  5日 午前5時 萩の浜港出発。
  6日 午前6時 函館港着。内田利平方に四泊
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有珠山展望台より

 10日 午後6時 函館港から「矢越丸」に乗船。
     「開拓秘録」では、百トン位の小蒸気船「矢越丸」とある。
 11日午前7時  紋瞥着。小野貫一郎方へ。
     さらに、長流川沿いを辿って壮瞥の小野の支宿に到着。
 13日  三橋政之の指示で、「湖水南を開削に着手す」。
 滝裏で、倉庫仮小屋工事に着手。
 28日 新倉庫上棟。大も荷物も収容。
  この間に湖上を渡る和舟を白老のアイヌから買受け、回漕し て、22、23日をかけて長流川を壮瞥まで曳き上げる。壮瞥から湖畔までの十数丁の山越しは、道がなく人の肩で担ぎ上げて湖面に浮かべた。荷物を小野から新倉庫に運ぶ一方、別部隊は向洞爺に小屋(「岩倉日記」では、長船の小屋)を建てた。この小屋を出先小屋にして湖畔から1里ほど離れた開拓地二の原に小屋をかける準備をした。

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 このように最初に入植したのは、現在の大原地区周辺の一の原、二の原という高地だった。
  5月10日 二の原の家を上棟させる。
  5月31日 開墾開始。雪は残るが播種期も迫っていたので、共同開墾法で手起しで進めた。 残雪の中、開墾に着手したのは5月31日。讃岐を出てちょうど2ケ月後になる。

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 入植した「洞爺」は、アイヌ語で「湖水の陸岸」を意味する「トヤ」に由来する。洞爺湖北岸沿いの下台地で、美しい湖水に向かって南傾斜し、台地は羊蹄山麓まで続く広い原始林が続いていた。気候は、内浦湾の影響を受け春先はやや不順だが、晩秋は良好で、農業に適した気候条件の土地だと事前調査では報告されていた。

 洋式の犂、牛2頭、馬6頭を購入し約46ヘクタールの耕地を開き、ばれいしょ・大豆・小豆・きび・あわなどの種をまきました。
 しかし、9月末の大霜で枯死。その後の2・3年間も同じような凶作にみまわれ、離村する者も相次ぐ。 紋別・室蘭へ出かせぎに行かなければ生活の糧を得ることができない状況が続く。移住団の門出は、多難であった。

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明治24年2月8日付 三橋政之の大久保諶之丞宛書簡には次のように記します。 
「初年20年は四郡にて23戸の移民にして、そのうち豊田郡から移住せし者独身者二名は移住後間もなく失踪帰国す。残る21戸の内にても同居同産の者あり。一戸体裁をなしたるものは17戸ばかり。21年は8戸ばかり、22年は坂下孫二、大西鉄造、23年は稲田君初め貴兄の御周旋にて移せし者のみ」

         参考資料 馬見州一「双陽の道」
   

略年表

1887年(明治20年) - 香川県旧丸亀藩士三橋正之ら22戸76名大原地区に移住、「洞爺村」開基。
1889年(明治22年) - 第2次移住民80数戸が湖岸に移住。香川地区の開拓開始
1907年(明治40年) - 日露戦勝記念として、湖畔33ヶ所に観音堂をたてる
1908年(明治41年) - 洞爺初の動力船「金湖丸」就航。(公共交通の開通)
1920年(大正9年) - 虻田村(現・洞爺湖町)より分村、「洞爺村」となる。(人口 : 3,220)
1953年(昭和28年) - 役場庁舎(現在の「洞爺湖芸術館」)落成
1975年(昭和50年) - 香川県財田町と姉妹町村になる。(人口 : 2,597)
1977年(昭和52年) - 有珠山噴火(1977年 - 1978年噴火)。
2004年(平成16年)4月30日 - 「とうや水の駅」本館完成、営業開始
2006年(平成18年)3月27日 - 洞爺村と虻田町が合併し、洞爺湖町を新設合併。
          これにより洞爺村は廃止。

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