雲辺寺-昔は四国坊とよばれる学問所のあった寺 

 
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香川県側からロープウエイで登る参拝者が多いので、香川の札所と思われていますが、阿讃県境の南側にあり行政的には徳島に属します。しかし、讃岐の霊場としてカウントされています。
 ここは、911㍍の讃岐山脈の山を越えたところにあって、北に向かうと讃岐の平野と瀬戸内海が見えます。南に向かうと阿波のほうは山また山です。

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 かつては大師堂があるところと千手院という現在の納経所とは、非常に離れていました。そして大師堂を中心に、その周辺にたくさんのお堂がありました。そのお堂は十二坊あるいは四国坊といったようです。昔は、阿波の者はここに泊まる、土佐の者はここに泊まるというように、それぞれの国の人が泊まるところが分かれていてたくさんの坊があったようです。しかも、一般の参拝者が泊まるところではなくて、ここへ集まって学問をする学問道場であり、別名四国高野とも呼ばれて、高野山と同じように学問をする場所だったようです。そのために十二坊があったのです。
 ところが歴史の中で千手院だけが残ったので、大師堂から離れた山頂近くに本坊ができたわけです。鐘楼と仁王門地もそこにありました。
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御詠歌は「はるばると雲の辺りの寺に来、月日を今は麗にぞ見る」はスケールの大きい歌です。

雲辺寺の縁起は?

この寺の縁起は『四国損礼霊場記』に出てくるもので、米収という武士が一匹の鹿を射て、血の跡を追ってこの山に入り一つの堂の前に出た。見ると弘法大師が作ったといわれる本尊に矢が当たった跡があったので、米或は発心して出家したという粉河寺式の縁起が載せられています。ただ、出家してのちのことは書いてありません。
 この本尊は寺の火災で見えなくなったけれども、のちに忽然として出現した。その間に何か物語があったか、少々説明不足です。

弘法大師が十六歳でこの山に登ったときに、本尊の千手観音を彫刻したというのは、弘法大師は十五歳から十八歳まで奈良の大学にいたから、つじつまがあいません。
さらに、大同二年(ハ○七)大師帰朝のときに登って、彫刻したともいっています。大同二年というと、大師が三十三歳のときです。たしかに弘法大師は大同二年に唐から帰ってきますが、京都に二年間入れませんでした。したがって、大同二年と三年はどこにいてもいいわけです。京都以外のどこかにいたことになりますから、その間ここにいたということになっていると考えておきましょう。
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 弘法大師は帰朝してから、自分は入唐してこれだけの勉強をした、これだけの典籍と密教の法具をもってきたという目録を作って朝廷に提出しました。しかし、留学期限を自分の判断で打ち切って勝手に帰国した空海に対して、時の政府は入京を許されませんでした。
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 弘法大師は行きは運よく遣唐大使と同じ船に乗りました。このことから空海を遣唐大使の通訳だったと推定する人もいます。昔の遣唐船は四隻です。新造船に遣唐大使が乗りました。伝教大師(最澄)は二の船に乗っています。ハ○四年の遣唐使の船は全部難破。第四船は行方不明になりますが、あとはそれぞれ漂着して肋かりました。新造船の第二船が、安全であったわけです。

この寺の山号は巨魁山です。

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 大きな亀という意味で、中国の伝説に出てくる大きな島を支えている亀のことで、海とのつながりがある信仰が見えてきます。この寺の讃岐側の山に立つと瀬戸内海を行き交う舟が見えます。辺路のお寺ですが海洋宗教に関係のあるお寺だということを示す山号です。
 大挙山の山上ヶ岳の行場の入口に、亀石という亀の形をした石があります。先達がお亀石をよけて通れよという意味の歌を歌います。踏んだりしてはいけないというので囲ってあるその石はは、那智の滝に通じている、海とのつながりのある山だということを暗示しています。
 つまり海とのつながりを暗示する亀石の存在から、この山号を得たのだろうとおもいます。このように、山号や寺号あるいは御詠歌は、その寺の歴史を調べるうえでの一つの手がかりになります。

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『四国損礼霊場記』は、『列子』という中国古代の文献に、海中の五山を巨贅という大きな十五の魚が支えているように、この山も巨瓶に支えられているようにそびえているから、巨瓶山と呼んだのだといっています。
 しかし、那智の滝に連なる亀石があるように、海に根が連なるという伝説をもつ亀石があったものとおもわれます。山頂から海が望まれることから、これも辺路信仰で名づけられたものです。辺路信仰で始まっているので、海に縁のある千手観音がまつられました。観音の性格として、千手観音は海に縁があり、十一面観音は山に縁があります。
 例えば、那智の海渡寺の本尊は如意輪観音ですが、那智大社のいちばん中心になる本地は千手観音です。千手観音がなぜ海の観音になるのかといいますと、千手観音が立っている像は、からだが帆掛け舟の帆柱で、手が帆のように見えるからとされます。ちなみに補陀落渡海をする人だちは、千手観音の像を岫先につけて船出しましたた。
 海に関係のある千手観音をまつる信仰に、大師信仰が加わって雲辺寺ができたと考えられないでしょうか。
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 山頂から四つの国が望まれるので、四国坊と呼ばれる四か寺ありとされ、そのいわれについて『四国損礼霊場記』は次のように述べています。
「其幡根四国にわたり、むかしは四国防とて四ケ寺ありとかや。今は此一寺に、阿州の城主より造立し給ひぬれど、讃岐の札所に古来属せり。本尊千手観音坐像長三尺三寸、脇士 不動、毘沙門、皆大師の御作なり。御影堂、千体仏堂、鎮守祠、伴社、鐘  楼、仁王門あり。境内高樹森々として絶塵世」

 山の根は四国にわたっているといっています。阿波と讃岐の境にあって、少し離れたところに伊予があり、もう少し行くと土佐があるので、大雑把にいうと、この山全
体が四国に当たらないこともありません。根っこが阿波・土佐・伊予・讃岐の四国にまたがっているので、昔は四国坊といって四か寺あった、阿波の城主の蜂須賀家が建てたと書かれています。
 水堂があるので、水源信仰があるのだろうとおもっていたら、近年になって篤志家が建立されたものでした。水源はずっと下の谷にあって、モーターで上げているのだそうです。


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長宗我部元親が土佐からこの寺に登って、四国統一の野望を固めた地とも伝わっています。四十八代住持の慶成和尚に戒められたにもかかわらず、ついに讃岐の地に攻め入り戦乱を起こします。その戦乱で寺も焼かれて、のちに阿波の蜂須賀氏によって再興されたわけです。
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この寺には寺には聖衆来迎図があります。
鎌倉時代の本尊の千手観音も毘沙門天も重要文化財です。
聖衆来迎図も鎌倉時代のものです。亀山天皇の御遺髪塔もあります。

参考文献 五来重:四国遍路の寺