小松尾寺は、天台・真言の合同学問所だった?

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『四国領礼霊場記』は、小松尾山大興寺と呼んでいますが、俗称は小松尾寺です。
本尊は薬師如来。
ご詠歌は「うゑおきし小松尾寺を眺むれば 法の教への風ぞ吹きぬる」です。
植えると小松を掛けて、吹く風に法の教えの遺がついたと詠んでいます。小松を弘法大師が植えておいたという意味だとおもいますが、弘法大師お手植えと伝えられる松があります。

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縁起は平凡です。

 弘法大師が弘仁十三年(822)に、嵯峨天皇の勅命によって熊野三所権現鎮護の霊場として建立し、本尊薬師如来を彫刻したという縁起です。熊野三所権現のなかでは、新宮大社が薬師如来を本地としていますが、本末は阿弥陀如来です。しかも、三尊がそろっていないと熊野三所権現とはいえません。
 小松尾寺は熊野三所権現を移したというよりは、むしろ阿須賀神社を移したのだろうとおもいます。ですから薬師如来が本尊としてまつられているのです。
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『四国損礼霊場記』に、「台密二教漢学の練衆、朧のごとく群をなせりとなん」とありますから、盛んなときは鹿のように群れをなして学問をする者がいたわけです。
そして、非常に珍しいことに、このお寺は天台宗寺院と真言宗寺院の両方から成り立っていたことが分かります。大和の当麻寺のように、真言宗と浄土宗が一つになったお寺はよくあります。真言宗が加持祈祷をし、浄土宗が亡くなった方の供養と「分業」している例です。しかし、天台と真言が一寺を形成したというのは、きわめてまれな例です。そこで両宗が教学を競うように、講学練達の学僧がが集まったのだとおもわれます。
 雲辺寺も「四国高野山」と呼ばれる教学の寺だと伝わりますので、山上と里に僧侶達の学問所が並立していたことになります。

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もとは真言宗の寺院が二十四坊、天台宗の寺院が十二坊あって、本堂の左右に並んでいたそうです。『四国損礼霊場記』には、
「天台大師の御影あり。醍醐勝覚の裏書あり」と書いているので、天台大師の像は雨像だとおもわれます。
 弘法大師の遺跡としては、お手植えの樟と称する大木があります。

この寺の歴史は、むしろ鎮守の熊野権現の別当寺が大興寺だったので札所になったのでしょう。

本尊の薬師如来も熊野権現の本地仏です。
『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂があり熊野権現が描かれています。石段の下に大興寺あり。ここからも本来は熊野権現が本尊で、その本地仏が薬師ですから、二にして一なるものです。「小松尾寺図」は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が大興寺であったことを示しています。

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 この寺は鎌倉時代には京都にまでも聞こえていたらしくて、「大興寺」の額は京都の世尊寺家で藤原行成第ハ世の孫の藤原経朝が書いています。額には「従三位藤原朝臣従朝文末四年即成七月計二日 丁末書之」という裏書があります。
 室町時代には三十六坊が並んでいたといいます。しかし、讃岐の神社仏閣の例に漏れず天正年間の長宗我部の兵火に焼かれ、慶長年間にに再建されました。
その時に現在地点に移ってきたといわれます。旧寺地は1キロほど北西だったようです。
江戸時代の記録には
「本尊薬師如来、脇士不動、毘沙門立像長四尺、皆大師の御作、十二神将各員三尺三寸、堪(湛)座作なり。本堂の右に鎮守熊野権現の祠、左に大師の御影堂、大師の像堪座作なり」とあります。
 こう見てくると村の中のお寺で、熊野権現がなければ札所になるのは考えられないようなお寺です。民家がすぐ前に建っている絵図を見ますと、昔から民家の間にあったようです。
 
 参考文献 五来重:四国遍路の寺