大日寺 万人講こそ共同体の原理

大日寺はかなり山の中に入ります。
その入口に近いところに五番の地蔵寺があります。地蔵寺はこのあたりではいちばん大きなお寺で、その奥に大日寺があるので、大日寺は地蔵寺の奥の院ではなかったかとおもいます。しかし、地蔵寺は現在では五百羅漢をまつるの奥の院をつくって関係がないように言っています。

大日寺の 御詠歌は、『眺むれは月白妙夜の夜半なれ たゞ島谷に黒染の袖』
というあまりわからない御詠歌です。月が煌々と照っている夜に墨染の袖の坊さんが歩いているような意味です。「たゞ黒谷に墨染の袖」では解釈のしようもありませんが、白と黒とを対照したのかもしれません。
縁起としては『四国偏礼霊場記』に弘法大師三礼一刻(三度拝んで一つ刻む)の大日尊、つまり弘法大師が彫刻した大日如来が安置されていると書いてあるだけです。黒谷という地名をとって黒谷寺とも称しているということが同書に出ています。

大日寺は黒谷の奥深く入った山間にある幽逡なお寺で、山門を入った正面に大日如来を安置しています。山門を入って大師堂に向かって右のほうに庫裡があります。
『四国辺路日記』には「堂舎零落シタルヲ、当所二大童蒙ノ俗有リ、杢兵衛卜云、此仁無ニノ信心者ニテ、近年、堂ヲ結構シタルト也」とあります。
しかし『四国偏礼霊場記』によると、安芸杢兵衛なる者が鐘を鋳てそれを鐘楼に懸けた、さらに応永年中(14世紀末)に松法師という者が夢のお告げによってこの寺を修復したということになっていまして、このほうが信用できるだろうとおもいます。

それから三百年後、時の住職が万人講を組織して復興します。
万人講は、大日寺を語るときに、忘れてはならない大きな特色です。
ここでいう宗教的な建造、いわば作善は、たくさんのお金を出す必要はありません。零細な寄付をできるだけ数多くの人から集めることによって、作善の功徳が倍加されるのです。
一人の人が一つのお寺を建てたとしますと、功徳は一つしかありません。
藤原道長が法成寺という非常に大きなお寺を建てても功徳は一つしかありません。
あるいは聖武天皇が奈良に大仏を建てても、一つしか功徳がありません。
そこで、聖武天皇は、大仏を建てるときに一握りの土でも一本の草でももってくることを許すという大仏造営の詔を出したのでした。作善をする人が一万人なら功徳は一万だというのが万人講の考え方です。

これは共同体ですべて事を行うという共同体の原理です。
したがってそこにできたものは共同体全体の所有となりますから、功徳も分けあえるし、維持もみんなしてやっていきます。
かりに権力者なり町豪なりが一人で建てたとしますと、彼が没落したり死んだりした場合、そのお寺がどうなるかは申しあげるまでもありません。同じように国家が建てたお寺の末路も、けっしてよいものではありませんでした。たとえば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。

元興寺にあった四つの僧坊のうち、現在も一つだけが元興寺極楽坊として残っています。三分の二だけ残ったのが元興寺極楽坊の本堂と禅室です。そこには聖だちがいて荼羅を中心にして人々を集めて勧進を行って維持してきました。その勧進のため西行が書いたという事実が残っております。大衆の支持によるものは残っても、国家によって建てられたものは残らないのです。
薬師寺は写経で復興しようと考えました。それも作善の集積のようなものでして、それが万人講というものです。
万人講はお寺ばかりではありません。
最近はあまり見かけませんが、山村を歩いていますと、道端に立てられた竹の筒にお金を入れる口が開いていて、「牛馬万人講」と書いてあります。続けて牛や馬を二頭死なせてしまった人が、次に買うときに万人講のお金を混ぜて買うと、牛や馬が成仏するといわれています。
これは、みんなの支持によって馬が存在する、一人の人間のものではなくて、所有権はみんなのものだという考え方なのです。それぞれの人がごくわずかなお金を入れて、いまのお金で千円か二千円になったとしますと、あとの三十万、五十万というお金は自分が出します。万人のお金を混ぜて使えば、万人の合力だというのが、勧進あるいは万人講の論理です。

『四国偏礼霊場記』は、中国の龍興寺の坊さんが華厳経十万部を転読するのに十万人に勧進した、それが万人講の起こりだと書いていますが、本来は日本人のもつ共同体原理から発したものと私は考えております。
昔は何かしようとするときはみんなで力を出しあいました。田植えひとつをとってみても、結の田植えといって、みんなで助け合います。万人講のことを知識結ともいいますが、知り合い同士が一緒になってものをするのが知識結です。十軒なら十軒がお互いに助け合って何かをするのを結同志といいました。奈良時代のお葬式もそのようであったらしいのです。

漁村にも結の慣行があったことが、山比ヶ浜のような[山比]といり地名からもわかります。
漁村で地引き網を引くときは村の人が全部で地引き網を引くんです。春とか夏の適当な日に、今日は結だというと、屈強な者が網を回します。そして、引き綱を二本引っ張って、向こうとこっちとで引いて陸に網を上げるわけです。
そのときは、労働力のない者でもそこに出ていれば分け前をもって帰れます。中国の班田収授法は労働力のある者だけですから、子どもや女や年寄りは分け前をもらえません。
しかし日本では、六歳になったら全部もらえました。そこに日本の班田収授と唐の班田収授の違いがあります。
地引き網の結の場合は、赤ん坊を背負ってくれば二人前もらえます。小さい子どもの手を引いて一人背負って引いたら、それで三人分になるという結の概念が万人講の原理です。ですから、中国の華厳社というものとは違うということを知っておく必要があります。
ちょっと話がそれるようですが、じつはいまの会社経営にも結の概念があって、それが生涯雇用ということになるのではないかと私はおもっております。それは一方では弱みかもしれませんが、一方では日本の企業の団結の強さになるわけです。こういうと、批判的な発言をする文化人類学者がいます。しかし、いいとか悪いとかの問題ではなくて、それが日本人の根本的な生活のしかたなのです。社会の仕組みかそうである以上、ヨーロッは的な社会結合の概念や合理主義だけをもってきても、なかなか日本には定着しないと私はおもっております。
五来重:四国遍路の寺より

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