地蔵寺-五百羅漢は釈迦信仰から

五番の地蔵寺には、あとからつくった奥の院に五百羅漢があります。
五百羅漢のほうが有名になりましたので、地蔵寺は俗称羅漢寺とも呼ばれています。黒谷にある大日寺の南の羅漢寺があるところの地名は羅漢といいます。本堂の裏のかつて寺があったところを、江戸時代の半ばぐらいに地ならしをして五百羅漢を安置して奥の院としました。
本尊は武装して馬に乗った姿をしている勝軍地蔵です。
勝軍地蔵はお地蔵さんですが慈悲だけではなくて、悪者を退治し、禍を払ってくれるという地蔵です。勝軍地蔵で有名なのは京都の愛宕山です。火伏せの神をまつる愛宕社は現在では神社になっていますが、もとは五つの山にある五つのお寺から成り立っていて、いちばん中心になるところは本地仏として勝軍地蔵をまつっています。
地蔵寺の地蔵と愛宕が関係があるかどうか、ちょっとわかりません。地方で勝軍地蔵をまつっているところは愛宕神社ともとは一つであったというお寺がわりあい多いのですが、ここには愛宕さんはありません。

御詠歌は「六道の能化の地蔵大菩薩 導きたまへ此の世後の世」です。
地蔵菩薩は現当二世の利益があるといわれております。
現は現世つまり現在です。当は当来、まさに来るべき、やがて来る来世という意味です。したがって、現世と来世を祓ってくれ世のどちらをも救済してくださる仏様が地蔵菩薩です。
薬師さんは現世の病気や災難を救ってくれる、阿弥陀さんは来世を救ってくれる、極楽済度をしてくれるというように役割分担になっています。地蔵さんはインドでできた時代から地獄の救済と現世の救済とを兼ねていたので、こういう歌が詠まれたのだとおもいます。
来世を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)としますと、
六道を救ってくださるということで、六道能化の地蔵菩薩というのが地蔵菩薩の称号です。それを御詠歌にして「六道の能化の地蔵大菩薩」と詠んでいるわけです。

熊野系統の山伏が来て勝軍地蔵をまつった?
地蔵寺の縁起では熊野が重要なものになっておりますが、ここには熊野系統の山伏が来て勝軍地蔵をまつったにちがいないとおもわしめるものがあります。
『四国偏礼霊場記』には「大師此所に遊び玉ふ時」とあります。
遊行すること、旅をすることを「遊び」といい、人々を導くことを遊化といいます。それを「遊び」といっているので、今でいう遊びにきたわけではありません。
「熊野の神現じて霊木を手して授け給ひ」というのは、手ずから授けた、これで地蔵さんを作りなさいといって霊木をくださったという意味です。その神木で、一尺七寸の地蔵さんを作って、一寸八分の尊像を胎内仏としてまつったというのは、山伏の建てたお寺の縁起の一つの形式です。
山伏が笈寵りであるところの小さな仏様をもってきて、最初はそれをまつっていだけれども、あとがら大きな仏様を作って、その胎内仏にしたわけです。しかし、胎内仏がなければ大きな仏様は魂がありません。魂が入っている、弘法大師の救済が笈仏を通して及んでいるということで、地蔵菩薩の信仰が盛んになったのです。

次いで鎌倉時代末の後宇多院のころに、再び地蔵菩薩像を刻んで大師作を胎内に寵めたといっています。後宇多院がどうして出てきたのかちょっとわかりませんが、縁起ですから、都合のよい時代や都合のよい天皇の名が出てきても、まあ不思議ではありません。
そのときの住持は定宥という坊さんです。
『四国偏礼霊場記』は、定宥という人は霊夢によって一尺七寸の地蔵を作って一寸八分の古像を新像の胸間におさめた、そのほか阿弥陀も薬師も作った、これは熊野三座であると書いています。が、熊野の三尊は阿弥陀・薬師・地蔵ではありません。阿弥陀さんが熊野本宮の本地仏、薬師さんが熊野新宮の本地仏、千手観音が那智の本地仏ですから、正しくは阿弥陀と薬師と千手観音が熊野三山の三座です。
そこで、「蓋、地蔵、観音、一体にてましませば」といって、観音と地蔵とは一体だ、この地蔵は観音と同じだから三尊だと無理なことをいっています。さらに、「此三尊、熊野三座になぞらヘーるらし。定宥もとより才徳信行の人なり。一夕熊野権現瑞託ありて、霊薬の剤方を示し玉ふ」とあって、このお寺には寺伝の火薬かあるということを詳しく書いて、その霊薬は万病円と称して四百余年伝来したといっています。

薬を家伝として作るというのも熊野修験らしいとおもいます
最近の修験道研究の分野では、修験道と薬という研究の課題を取り上げる人がかなり多くなってきました。漢方というものがありますが、同時に修験伝来の薬がかなりあります。日本の修験道のある山には、たとえば大宰・葛城だったら陀縦尼助というように、それぞれ特色のある伝来の薬剤があります。ここの万病円も、おそらく山岳修行をする者たちが作っていたのだろうとおもいます。
昔の山伏は地方に御札配りに来るときも、ただ御札だけを配るのではなくて、山で採った薬草を一緒に配りました。また富山の場合は、立山修験たちが薬とともに経帷子を配りました。修験道とお葬式は別のものに考えがちですか、修験道はむしろ山に入った死者の霊をまつります。『今昔物語集』によりますと、立山の地獄谷は日本中の死者の霊が集まるところだといっているので、そこから経帷子を配ると、亡くなった人が帰ってくるわけです。
はじめは山伏が配っていたのが、だんだんと配置売薬のようなものにまで発展したようで
す。

地蔵寺の奥の院は羅漢堂です。この寺が一名羅漢寺と呼ばれるのはこの奥の院のためです。
ただし、『四国偏礼霊場記』にも『四国辺路日記』にも出てきません。
実際には安永・天明(18世紀末)のころに造られたらしくて、実名・実聞という二人の坊さんが諸国を勧進してお金を集めて造ったのだと伝えています。しかし、ぞろぞろとあとから連れてこられたらしく、初めから五百そろっていたのではありません。最近、造立されたものもあるようです。江戸時代の遊行者の間にあった仏教復古主義の釈迦崇拝がこの羅漢信仰にも表れています。

大乗仏教という仏教では菩薩を信仰対象にしています。羅漢は小乗仏教の理想の仏です。すべての人が覚りを開けば社会全体が救われることになりますが、世の中の人みんなが、山の中に入って一人で修行したりすることはなかなかできませんから、結局、菩薩による往生という簡単な覚りになってしまいます。
釈迦の覚りを開くということは、日本ではほとんどありえません。
ただ雲水の場合は僧堂にいて三年なら三年という修行をするので羅漢の覚りを開けます。雲水になると聡下石上といって、石の上に座ってじっと瞑想をして覚りを開きます。それが羅漢というものです。お釈迦様の。五百人のお弟子さんは、お釈迦様から「お前は、覚った」ということで、授記といういわば覚りの許可状のようなものをもらって羅漢になりました。ですから、釈迦崇拝がすなわち五百羅漢の崇拝になるわけです。

ところが、一般民衆は五百の菩薩の格好をした顔がおもしろいものですから、亡くなった人の面影を羅漢の中に探すという信仰のほうに変わっていきます。現にここの羅漢さんも亡くなった人の供養に行きます。大分の耶馬渓の羅漢寺の羅漢さんなどもそうです。亡くなった大の面影が五百の羅漢の中にかならずあるという信仰から、仏教の羅漢とは違った信仰ができますが、それを作った動機は仏教復古主義からきています。

正面に釈迦如来をまつります。右手にはお大師さんがあって、左手のほうに弥勒さんがまつられています。弥勒さんはお釈迦さんが亡くなって五十六億七千万年たってから出てくる仏様ですから、いまはちょうど中間の時期です。その間は羅漢さんに救ってもらうということがこの意味であったとおもいます。お釈迦さんと弥勒、羅漢さんと一緒にお大師さんをまつっているので大師堂と呼ばれます。この五百羅漢はなかなか壮観です。

ここに遊行者がいた証拠は、淡島堂があることです。
八十五番の八栗寺の場合は以空上人が淡島願人として八栗寺に来ました。淡島願人はお大師さんの絵にかいてあるような笈を背負って杖を突いて歩きました。杖の頭のところに淡島様の像と称する小さな仏像が彫ってあります。笈の中には亡くなった子どもの人形を入れて、和歌山市加太の淡嶋神社まで運んで、三月三日に流します。
それと辺路の信仰を両方合わせた淡島願人が淡嶋から出たといいますが、じつは地方、地方に根をもっていました。地方ごとに淡島堂があって、そこから出入りしていたようです。以空上人が八栗寺をあんな大きなお寺にしたのは淡島願人が弁天さんをまつったからです。
淡島信仰にはいろいろな民俗信仰が入っています。その中の一つが「へちま加持」です。たいていは夏場ですが、ここに行って見ておりますと、一年中「へちま加持」をしています。

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