四国霊場 三十六番青龍寺 海神信仰のお寺

青龍寺は龍神を拝むことが寺の名前になりました。奥の院の下には龍の窟があり、海岸が龍の浜であり、宇佐の町から青龍寺のある半島まで渡るところが龍ノ渡です。すべて海神を信仰対象にしたお寺であることがわかります。 三十六番の青龍寺は、如意山という山の上にあります。
かつては摩尼山、独鈷山、如意山という三つの峰に含まれるかたちでこのお寺がありました。如意山中腹の現在の本堂の不動明王は、奥の院の不動明王をまつったものだとおもわれます。その前にあった薬師を本尊とする「道場院光明法寺」を本堂の右横に移して、鎮守の白山権現もその横に移されたものと推定されます。そして、ここを札所とするようになると大師堂がその右にできました。

札所は、本来は大師堂を必要としていません。
遍路をする方は、札所に来てお参りをして納経交付をもらったり、庫裡に泊めてもらったりしていたわけです。ところが、本堂に行くのがたいへんだというので移しますと、そこに大師堂ができます。札所は弘法大師が修行した跡ですから、弘法大師をまつるのではなくて弘法大師自身がそれをまつったものです。ところが大師堂は、あとで弘法大師信仰になってから造られます。不動堂が真ん中に据わったので、もとの薬師堂と白山権現が移されて左隣に大師堂ができました。 こうしていろいろなものを見ていくと、札所の性質としてもとは弘法大師が修行するような行場であったのが、 しだいにお寺を人々がお参りしやすい平地に移していくということが分かります。
一つは、麓に移す場合があります。あるいは、近くに建物の整ったお寺があると、まるでヤドカリが宿を借りるように本尊さんだけをもってきて、建物をそのまま使って、もとの札所の名前に変えてしまうという場合もあります。

青竜寺の場合は、もとからあった如意山道場院光明法寺と合併して独鈷山青龍寺になりました。そこに坊さんが泊まれる場所として伊舎那院という本坊があったので、独鈷山青竜寺伊舎那院という名前になりました。そうなると、元の修行の行場は奥の院という名前で残ります。ところがだんだん奥の院が忘れられて、さながら昔からあった太子堂に御参りするような形になってしまいます。そういう変化が近世初期には起きたのです。

かつて、高知から青竜寺へ参るには龍ノ渡という渡し場がありました。
渡し船の家は八軒あって、弘法大師のお供をしてきた八入の子孫だといわれています。
このことからも、弘法大師の辺路修行にお供がいたことがわかります。修行者には必ずお供が付きまして、それを童子と呼びます。童子といっても若い者ばかりではありません。
童子は召使という意味です。食事のことから身のまわりいっさいのお世話をします。
徳の高い修行者には、山の神が天狗に姿をかえて童子の役目をはたしたことになっています。天狗が鉢を飛ばして食べ物を集めたという奇跡譚が伝えられるのは、修行者を支える人がいたからです。

ここには西安で、空海に密教を授けた恵果の墓もあります。
長安にいたはずの恵果和尚の墓と聞いて、おどろかれるのも無理はありません、が、長安の青龍寺と同じ名前が付いているからには、青龍寺の恵果和尚と何か関係があるかもしれないと考える人が現れ縁起を証明するようなものをあとから無理やりつくるわけです。
ここには龍燈信仰もありました。
この辺の漁民は、難破したときにお不動さんを念ずると闇の中に松が浮かんでその松に火がかかる。その時に明るい方向に進んでいくと助かるといい伝えています。ところが、戦時中に松根油を採るために松を伐ってしまいました。残念なことです。横浪三里の入口にある宇佐は鰹漁の本場ですから、いまもこのいい伝えは宇佐の漁民によって信じられています。 青龍寺は、辺路の代表的な霊場の一つです。
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