四国霊場 37番岩本寺の以前の札所は五社神社の別当寺だった

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岩本寺は窪川町の町の中にあるお寺です。しかし、その成り立ちは複雑です。
37番の札所は、近世以前には別の所にありました。窪川の町から2㎞ほどはなれた四万十川の源流を渡ると、東の山の影に五社と呼ばれる社が五つ並んでいます。五つのお宮の一つの中宮の別当・福円満寺が37番の札所でした。今も中宮には福円満寺の寺地が残っています。江戸時代前半に、別当であった福円満寺が衰えた時に、岩本寺に別当権が移ったようです。つまり、五社から窪川の宿坊であった岩本坊に札所の権利が移ったのです。しかし、さらにさかのぼれば山の上にある陵がいちばんの奥の院だったともいえます。札所はそういう発生のしかたをします。神社をもって札所とするところが意外に多くて、土佐一宮の場合も神社そのものが札所でした。四国の四つの一宮はみな札所になっています。 
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五社の真ん中の中宮に「元三十七番福円満寺」という本の札が立っています。
ここに五社の社務所があって、現在は高岡神社と呼んでいます。奥の院は磐座です。
御詠歌は 「六つの塵 五つの社あらはして ふかき仁井田の神のたのしみ」となっています。
なんでもない歌のようですけれども、神社が札所であるということを説明する歌として重要です。
「五つの社」は五社を表し六つの塵というのは煩悩です。六塵煩悩という六種類の煩悩を「五つの社」が現れて和合したというのが和光同塵(どうじん)です。この時の札所が岩本寺でなくて仁井田五社、すなわち仁井田明神であったことはご詠歌からも分かります。
 縁起は、行基が開いた、そして行基菩薩以前から仁井田明神がいたので、ここを札所にしたという決まりきった縁起です。その別当寺はもとは福円満寺でしたが、この寺が退転したのちに岩本寺が別当になったことは前述したとおりです。
 仁井田明神は、伊予の名族越智氏の祖先だという五社を仁井田五人士とも五人衆とも呼ばれる五家がまつってきたものです。それぞれ五軒の持ち役があって、まつってきました。
  仁井田五社の福円満寺の札所権を、窪川の町の中の宿坊であった岩本坊が手に入れたわけです。岩本寺は、窪川の町中にあり、茂串山を背後にしているのでもとはこの山が奥の院としたのでしょう。
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いま岩本寺に行って、正面から拝もうとすると汽車が通ります。茂串山とお寺との間にJRがかかってしまいました。もともとは山の麓にできたお寺でした。この間には複雑か経緯がありました。岩本寺の前身は五徳智院とも五智院ともいう五社から足摺岬までの途中の宿坊でした。中世末期に諸国をめぐって一宿した尊海法親王が、この宿坊に岩本坊の名を与えたのが岩本寺の起源だと『南路志』は説いてします。 

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 山内一豊が土佐藩主になったときに仁和寺の聡獣快長法印が、ここに隠居してから足摺岬金剛福寺から独立します。もとは金剛福寺が住職を任命してわけです。岩本寺が仁井田五社の別当寺となってからは、本尊は五社の本地仏の五鉢をまつるようになります。現在も本尊は不動