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金倉寺
金蔵寺の本尊は薬師如来です。
古代寺院の本尊は、薬師如来が非常に多いようです。八十八か所のうちで、海岸のお寺約三十か所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を肋けてくれる神かやってくるという信仰があったからです。ここには熊野信仰との神仏混淆が背景にあるようです。薬師如来と熊野行者の活動は重なり合う部分が多いようです。熊野行者が背負ってきた薬師如来がそのまま本尊になっていることが多いようです。金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
ご詠歌は
「まことにもしんぶつそう(神仏僧)を開くれば 真言加持の不思議なりけり」
でなんだかよくわからない御詠歌です。「しんぶつそう」は神仏憎という字を当てるほかないようです。

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金倉寺境内
 金倉寺に行って、南の門から入ると広揚があります。
左に八幡さん、右に弁天さんがあって、突き当たりが薬師さんをまつっている本堂です。それに対して、向かって右に常行堂の庫裡(納経所)、左に鬼子母神堂と大師堂があります。善通寺あるいは善光寺に同じく東向きに大師堂があって、十字に交差する伽藍配置です。

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太子堂

大師堂には、弘法大師像と智証大師像を安置しています。

金倉寺は、弘法大師のお姉さんが嫁いだ和気氏(因支首氏)の氏寺だということになっています。
善通寺の空海の佐伯家と、金蔵寺の和気家は近隣の豪族同士、婚姻関係で結ばれていたことになります。また、境内には隣接し新羅神社も鎮座し、渡来系の性格がうかがえます。

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新羅神社
そこに生まれたのが智証大師円珍ですから、智証大師は弘法大師の甥ということになります。しかし、智証大師が開いた天台宗寺門派では、弘法大師の甥とはいっていません。そのあたりに天台宗のこだわりがありそうです。

 金倉寺には「金蔵寺文書」が残っています。
 この文書は中世文書だけでも約百通あります。これも『香川叢書』に入っていますが、「金蔵寺縁起条書案」という金倉寺の縁起を箇条書きにした下書きが残っていました。それによると8世紀に金輪如意を彫刻して道場を建て、自在王堂と称しました。その大願主は景行天皇十三代の子孫の道善という人で、智証大師の祖父になります。そのため、最初は金倉寺とは呼ばずに道善寺と呼んだというのです。しかし、当時の正式文書からは円珍の祖父は、道麻呂であったことが分かります。

円珍系図1

智証大師(円珍)と天台宗の関係は?

 伝教大師のお弟子さんの義真は渡来人で、伝教大師が入唐したときに通訳をした人です。この人が比叡山の第一代目の座主になります。智証大師はそこへ入って出家して円珍と称します。
 そのうち846年に入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、858年に帰朝します。そして、和気宅成の奏上によって、仁方元年に和気道善が建てた自在王堂の敷地三十二町歩を賜って、859年に道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。これは中世の文書ですから、確実性が高いと考えられます。
 智証大師は寛平三年(894)に79歳で入寂しました。
 
智証大師像 圓城寺

円珍坐像 卵型の頭がトレードマーク

実は「金蔵寺文書」は金倉寺にはありません。

どういう経過をたどったかわかりませんが、高野山の金剛三昧院に所蔵されています。そのほか、応水入年(1402)に薬師如来の開帳が行われたということも出てきます。この時の開帳のときに、本尊さんから胎内仏が出たようです。
「金蔵寺衆徒某目安案」によると、鎌倉時代末期の徳治三年(1308)3月1日の火災で、金堂、新御影堂、講堂以下が焼けています。したがって、金堂の薬師如来が出現したと書いてあるのは、本尊が焼けてしまって、胎内から腹頷りの金銅の薬師如来が現れたことをいっているのでしょう。

 善通寺の本尊も薬師如来です。

善通寺の現在の本尊は室町時代の作ですが、創建時の薬師如来は白鳳期の塑像です。泥で造った薬師如来ですから、首が落ちてしまって、白鳳期の特徴をもった塑像の上面だけが残りました。かなり大きなものです。白鳳期のものは塑像が多くて、大和の当麻寺の金堂の本尊の弥勒如来もご面相が非常によく似た白鳳期の塑像です。

 薬師といっても、弥勒と同じようなお顔をしています。
塑像の白鳳期仏はほかにもたくさんあります。観音さんだといわれている大和の岡寺の本尊さんも塑像です。その胎内に、今は奈良博物館に陳列されている白鳳期の作品として、いちばん愛らしい仏様が入っていました。焼けたりして塑像が崩れると、その中から金銅製の飛鳥仏や白鳳期仏が出てくることがあります。「金蔵寺文書」の記録も、それを指しているのだと考えられます。

 応永十七年の「金蔵寺評定衆連署起請文」では、師衆、親子、兄弟の偏頗を禁じています。えこひいきをしてぱならないといっているので、弘法大師の肉親が高野山で寺務別当として経済的な事柄を扱ったのと同じように、肉親による寺務が行われたことが想像されます。
 智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写

円珍坐像(江戸時代の模写)
起請文の中で、神様に熊野三所権現と若王子があることも注意すべきものです。

評定衆は十か院坊にわたっているので、三十か寺か五十か寺かわかりませんが、かなり多くの院坊を擁していたことが考えられます。
 先達、御子(巫)、承仕、番匠、加行法師、寺宗門徒など、お寺の使役者が挙がっているので、山伏や童子か隷属していたこともわかります。
 享禄三年(1530)前後の「綸旨案」では、金倉上下庄が国威寺領であったことが分かります。
京都の国威寺の荘園として讃岐に金倉寺があって、円満院門跡の支配を受けていました。さらに、同じ天台宗の三十三所の一つの長命寺と関係があったことも出ています。
円珍系図1

円珍系図 (俗名広雄 父は宅成 祖父は道麻呂)
 
智証大師の祖父は和気道麻呂(通善)について
 宝亀五年(774)に、この寺を開いたのは智証大師の祖父和気通善なので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じことです。しかし、通善は道善の誤りでしよう。
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金倉寺前の道しるべ

 醍醐天皇が金倉寺と改め、南北ハ町・東西目町の境内に百三十二坊あったという伝承もありますか、これではあまりにも大きすぎるような気もします。のちに南北朝、永正、天文の争乱で縮小・衰退していたのを保護したのが高松藩主の松平頼重です。
金蔵寺
金倉寺
 金倉寺の大師堂の前のところに、平安時代末期から鎌倉時代初期ぐらいの多宝塔が残っています。
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