国分寺-古代寺院を彷彿とさせるお寺

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 四国の各県の国分寺と一の宮は、みんな札所になっています。六十六部は、神社である一の宮も全部回ったので、そういう伝統が遍路にも残ったということでしょう。
日本全国六十六か国の一の宮を回る伝統が、四国では四か国の一の宮を回ることになりました。そして、幸いなことに四国は四か国とも旧国分寺の境内をそのまま使って新しい国分寺ができています。
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伊予の国分寺の場合は、いまは薬師さんの薬師寺だけが残って、伽藍跡としては100メートルほど離れた人家の間に、塔の礎石が残っているだけです。讃岐の場合は、自然環境もすっかりそのまま残りました。しかし、創建寺の金堂と塔は残っておりません。講堂があった位置に現在の国分寺の本堂があります。もっとも、その本堂は鎌倉時代の建物です。
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 国分寺が衰えた理由は簡単でして、国家が造ったものは国家が面倒を見きれなくなるとつぶれてしまいます。ここに官寺大寺の盛衰の大きな原因があります。
 国家によって建てられ、国家によって保護され、国家によって維持されたものは、国家の保護がなくなれば衰えてしまいます。それと同じことは国分寺の場合にもいえます。国分寺は国費によって建てられ、国々の国司が国衛稲(国司のところに収納する租税)の一部を国分寺と国分尼寺に分けていました。佐渡や若狭の場合は全く跡形もなくなって、別なところに国分寺という名前のお寺が造られました。幸いなことに、四国の場合は、昔の寺他の近く、もしくはもとあった場所にあります。

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 奈良西大寺の指導下に、本堂は再建されました。

中世の讃岐国分寺は、権力と結び付きを強くした真言宗を堕落したものと見なし、南都(奈良)西大寺の叡尊から始まる教団(真言律宗)とのつながりを強めていきます。南都西光寺は仏教の根本である戒律を重んじ、真言律宗の大きな課題として各地の国分寺復興に積極的に取り組みます。その、再建方法が資金や資材を広く集める勧進(かんじん)という方法でした。こうして、西大寺の指導下に、讃岐国分寺の本堂は再建されます。再建場所は、8世紀の講堂礎石の上でした。それは、真言律宗の「原理主義」を体現したものかもしれません。本堂は、豪快な木組みによる高く広い空間を作る、簡素な折衷様で、南都の技による建築の流れをみることができます。
 この時期は寺社の再興・創建が相次ぎ、多くの堂塔や社殿が建てられました。讃岐に現存する建築としては、讃岐国分寺本堂・観音寺本堂・本山寺本堂・屋島寺本堂などがあります。これらは折衷様(せっちゅうよう)あるいは新和様(しんわよう)と呼ばます。東大寺の再建や鎌倉の禅宗寺院などで取り入れられた新たな技術と様式が、従来の和様と融合してできた様式です。その建設には多数の職人が必要で、畿内から来たと思われる棟梁や上級の職人の下で地元の職人が働き、新たな技術と様式を地元の職人たちは吸収していったのでしょう。
 屋根に葺かれる瓦も、それまでの青味がかった灰色から黒色の燻し瓦へと変わっていきます。軒丸瓦の文様は、それまでの蓮華文から三つ巴文へと変わっていきます。こうした変化は、地元の瓦職人たちが担いました。    

 讃岐の国分寺は、そのたたづまいがよく残りました。

 金堂と七重塔さえあったら奈良時代の国分寺もこういう状態ではなかったかとおもわれるぐらい、たたずまいがよく残りました。礎石も金堂と塔の礎石はほとんど完全に残っています。
 本尊は本来は釈迦如来だったはずです。
ところが、鎌倉時代に復興したときに国分寺の千手院だけが残って、講堂跡にできたのが現在の千手観音を本尊とする国分寺の本堂です。古代寺院だったということもあって、たいていのお寺は境内の主要な場所に庫裡を堂々と建てたりするのに、ここの国分寺の場合は、お寺の管理をする庫裡や納経所などは築地塀の外に控えめに配置されています。
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ご詠歌は
「四を分け野山を凌ぎ寺々に 記れる人を助けましませ」で
国分寺を読み込んで、「四を分け」と家っています。
四つの国を分けて遍路が野山の苦しみをしのぎながら寺々をめぐっている、訪れた人をそれぞれの寺の本尊さんが助けてあげてください、という意味だとかもいます。
幼稚なようですが、味わってみるとなかなか味のある歌です。

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聖武天皇の発願で天平十三年(741))国分寺建立の勅によって、国中一四一か寺ずつの金光明四天王護四之寺と法華滅罪寺が建てられました。これは家大寺と法華寺の関係にもなります。いずれも国家を守護するということを目的にしてできたものです。
 国分寺の建立は、天平九年(737)以降の疫病と国作を鎮めるためだとされています。庖疸の流行は、藤原四家がそれぞれ当主を失ってしまうくらいの疫病でした。それを鎮めるためだとされています。
 が、実際は良弁らの建言で、中国が大雲寺を国々に建てたのに依って、国家統一を目指したものでしょう。その結果、各国に一つずつ国分寺を建て、中央の奈良に東大寺を建てたのです。
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 各国の国分寺の本尊は釈迦如来です。

梵網経に読かれているように盧舎那仏を中心にして、その周りに百億の出生の釈迦がいるとすれば、盧舎那仏を中心とする一つのヒエラルヒーというか、一つの組織ができます。
 西国直二郎先生は、これが目的だったという説を出して、梵網経をそのまま東大寺と国分寺の関係に広げています,現在では、それに添えて法華経による死者の魂の滅罪を願ったのが国分尼寺だということに落ちついています。
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 国分寺は本尊の釈迦牟尼像一丈六尺と大般若経六百巻を供えました。
大般若経は、国家的な災い、たとえば災害や怨言を鎮めたりする力かあるというので、各国の国分寺に大般若経六百巻を供えるように命令しています。国分寺建立の記には、本尊を納める金堂と七重塔を造り、「金光明最勝王経」と「読華経」とを供えて、これを読誦しなさいということも記されています。
 しかも、造る場所は「好処を選べ」と命令しています。
土地によって場所が違いますが、だれが見てもいい場所を選びなさいということで、奸処が選ばれました。しかし、旧址がそのまま現在の国分寺として保存された例はあまり多くありません。
その中では讃岐国分寺と土佐四分寺と阿波国分寺はよく残されていて、四国の場合は四か寺とも八十八か所の霊場になっています。
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 現在の讃岐国分寺は、山を北に背負って南に開いた位置にあります。
しかも、境内の外に出ると淵ケ池という大きな池まであって、かりに人家がなかったら極楽の姿を呈するような場所です。背後の山は国府台という丘陵で、もう少し北に行くと五色合があります。

縁起には、大蛇退治の読が出てきます。

聖武天皇の勅願で行基菩薩が開基となって建立された、千手観音を本尊としたとありますが、実際には釈迦如家を本尊です。のちに弘法大師が中興したといっているのは、霊場としての意味をもたせるためでしょう。
 ただ、ここは弘法大師が生まれたところからあまり遠くなく、讃岐国府にも近いので来たことはあったかもしれません。司馬遼太郎氏は『空海の風景』の中で、弘法大師がここへ来たと書いていますが、そういう想像をさせるような場所でもあります。
 本尊は弘法大師が修補したとされています。
現在の本尊は平安時代末期ぐらいのものだとおもいます。しかし、一木ですから、中期のものかもしれません。
 国分寺に関しては次のような伝説があります。安原淵に大蛇がいて人々をとって食べた。戸継三郎という者が大蛇退治に出かけたが、大蛇が銅鐘を頭に載せて浮き上がってくるので、なかなかしとめることができない。そこで千手観音を念じたら退治することができたので、鐘を大蛇から取って国分寺に納めたということになっています。
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国分寺の縁起の半分は鐘の由来に割かれています

 国分寺の奈良時代の銅鐘は重要文化財に指定されています。
 この鐘を慶長十四年(1609)に高松藩主生駒一正が高松城の時鐘(時を知らせるための鐘)にしたところ、鐘の崇りがあったので、国分寺に戻されたという記録があって、実際に国分寺に戻っています。
 慶長十四年二月の「高松城に鐘を納めよ」という文書と、三月の「鐘を返すから受け取れ。そのかおり領主の煩いを治すように祈りなさい」という文書があるので、鐘を国分寺から高松城にもっていったら、生駒一正が病気になってしまって、鐘の崇りだと考えて返したことが証明されます。したがって、これは縁起でも伝説でもなくて事実です。
 そのころの武士たちは縁起をかつぎました。
豊臣秀吉も善光寺如来を京都へ移したら病気になったので、すぐ返したという事実があります。
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  国分寺は五色合の南の国府台の南麓にあります。

 古代国分寺の旧地を占める閑寂な境内です。広い境内に点在する奈良時代の礎石と亭々たる古松が美しく、旧国分寺の七重塔の礎石十五個と金堂の礎石三十三個は、いずれも奈良時代の巨大な礎石です。どこの国分寺も七重塔を復興したところはありませんが、讃岐の国分寺の場合は石造七重塔があります。鎌倉時代には領主のあつい保護があったようで、金堂も石造七重塔も鎌倉時代です。
 ただし、慶長年間以前の古文書がないので、庇護者の名前はわかりません。
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 鐘松には重要文化財の奈良時代の銀鎖が残っています。
金堂跡の東に地蔵堂、その東の築地塀の外に、庫裡、納経所、大師堂があります。
金堂址と池を隔てた講堂址に建てられた現国分寺千手院の本堂は、九間四面の鎌倉時代の建築です。本尊は一木造の平安時代の十一面千手観音です。

 このお寺は板壁に遍路の落書があるので有名です。
しかし、これは一般に公開しておりません。松山の円明寺の銅板納札は「四国仲遍路」と書いてありますが、国分寺の落書は平安時代以来使われている辺路を使って「四国中辺路」と書いてあります。
 紀州の中辺路もこの字を使っているので、もとは遍路を辺路と呼んだことは明らかです。やがて道路という文字の言まで「ヘンロ」と読まれ、さらに八十八か所を全部回るということから「遍路」と変わります。そうなると、「ヘジ」ではなくて「ヘンロ」と読むようになったのです。
 国分寺の落書は、永正十年(1513)のほかに、大永年(一五二八)、天文七年(一五三八)、弘治三年(一五五七)があるので、室町時代ごろになってから出てきます。
辺路が海岸の修行であるのに対して、中辺路は内陸の修行を意味しているという説を完全な定説とするわけにはいきませんが、紀州の中辺路も内陸の修行を中辺路といっていますから、この落書の場合も内陸の修行と解釈できるかとおもいます。