ハ栗寺 聖天堂が大にぎわい
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八十五番のハ栗寺について「四国辺路日記」は、このように書いています。 
本堂は南向、本尊千手観音、大師大唐ノ時、唐より粟子ヲハツ、海上ニ投玉フ。 仏法繁昌ノ霊地ト可成所ニ至テ、生成セョト約束シ玉フ。
此系数万ノ波濤ヲ唆テ、此嶋二流留ルト也。
八本ノ栗本生成テ、大師阪朝ノ後、当国ニ至テ尋付玉テ御覧スルニ、
此嶋ニ業八木生ナリ。
 近世の縁起には、本尊はもとは十一面観音で、高松の殿様が本尊を変えたと書いてあります。
大師が唐に行くときに栗を投げたというのは、帰ってこられるかどうかという一種の占いだったとおもいます。占いとして海上に栗の実をハつ投げて、栗が着いたとこそに自分が帰ってお寺を建てると約束しました。
「唆テ」は「凌テ」です。「数万ノ波濤」は数万里という意味です。
海を隔てた唐から日本に流れて、この島に流れ寄ったと伝えられています。
栗は、よく占いに出てきます。
のちになると、弘法大師の法力だとされ、弘法大師の投げた栗がこの栗だ、
しかも一年間に二度もしくは三度実をむすぶという二度栗伝説・三度栗伝説が生まれます。
 こういう弘法大師伝説の一つのタイプを縁起に使って、この場合は栗の生えたところに仏法が繁昌するという話にしたわけです。それがハ栗寺の起源です。
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 この説のほかに、もう一つ、奥の院に登ると非常に眺望のいいところですから、ハつの国が見える、ハ国寺がハ栗寺になったのだという縁起もあります。

  峯ハ大磐石、金輪際より出生テ、形如五鈷杵。
 ハ栗寺の奥の院は五つの峰からできていて、密教の法其の五鈷のような形だと書いています。しかし、現在は峰は四つしかなくて、元禄十一年(一六九九)と宝暦三年(一七五三)の地震と風で落ちたと書かれています。
 五剣山ですから、一つの峰を剣と呼んで、一ノ剣、ニノ剣、三ノ剣、回ノ剣、五ノ剣があります。いちばん高かった五ノ剣は半分から崩れたと伝えています。
頂上は普通の修験の山では馬の背という行場に当たります。せいぜい五〇センチぐらいの本当に狭い道で、両側は断崖ですから、心がよほど平静でないと危険です。そこを通るときには、「南無大師遍照金剛」と唱えます。

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 昔は五剣山の麓に四十八のお寺があったと伝わります。
その一つで、本坊として残ったのが千手院で、それを全体の名前としてハ栗寺千手院と呼ばれるようになりました。 
絶頂は彼磐石ノ五鈷形二上ル間、中々恐キ所ナリ。
 いま遍路の方はほとんど登れません。というより、転落事故も起きているので、登らせないように「危険につき登山禁止」になっています。
 当山権現は蔵王権現です。
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 しかし、本格的な辺路修行では、ここを回ってさらに竹居観音まで回ったと考えられます。それが山と海との行道です。四国遍路の寺には山のほうを金剛界とし、海のほうを胎蔵界とするという名づけ方があります。幸いハ栗寺にはその伝承が残っていて、竹居観音を奥の院としてお参りしています。ここの 場合は潮垢離をとるということも行道の目的だったでしょう。
竹居観音の海で潮垢離をとって山をめぐる、めぐり終わったらまた潮垢離をとる、
まためぐるという行道をしていたことが推定されるような場所であります。

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 ハ栗寺の本堂は観音堂でして、正面に観音堂、その右手に大師堂があります。
五剣山は、四つの峰と瘤がつながっており、三ノ剣といわれる蜂の下の大きな洞窟の中に宝飯印塔があって、その下が本堂の観音堂で、その横に大師堂があります。
霊場であれば、どこでも本堂と大師堂は並んでいます。
 ところが、聖天堂のほうに大勢のお参りがあるわけです。
聖天堂は大きな岩の洞窟の中に建物が半分入っている、T字形になった撞木造のお堂です。現在のハ栗寺は聖天さんの信仰のほうが大きくなりました。大阪の生駒でも聖天さんは商売繁昌の神様として信仰されています。もう一つは、縁結びということでお参りが多いのです。

 
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聖天さんをまつる人は一生涯拝まなければいけません。

途中でやめたら逆にその人が災いをこうむります。
功徳も多いけれども崇りも恐ろしいということになっています。
住職は毎日、聖天供といって、朝早く起きて聖天さんの像に油を温めてかけなければなりません。それから、歓喜団という中にあんこを入れて油で揚げた歓喜天の団子を毎朝あげなければなりません。それをずっと続けているそうです。
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 ハ栗寺には半分は岩窟の中に入ったお堂に天狗さんがあって、ここからIノ剣に登っていきます。ここにはいろいろの洞窟があります。第一宮の洞窟は求聞持窟とも考えられますが、いまは以空上人をまつっていて 「以空上人様」と書いてあります。

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以空上人は、紀州の淡島神社から出て行った「淡島願人」

淡島願人は病気平癒の祈願のために女性や子どもが身につけたものを預かったり、死んだ子どもの菩提を弔うためにおもちゃなどを預かって、淡島神社まで運びました。そして一年に一回の祭にそれを海に流していたのです。
 のちになると淡島さんが神社になってしまいました。
神社ももってくれば預かるようですが、本殿が非常に立派になって、もとの庶民信仰的な気分はなくなりました。各地に淡高堂ができて、それを中心に活動しています。神仏分離以前は全国に淡島願人がいました。
 願人というのは代わってお願いする人、つまり代願人です。
鞍馬願人も鞍鳥山に代わってお参りする人です。
淡島願人も鞍馬願人も江戸にちゃんと出張所かあって、江戸時代には江戸を中心に活動していました。淡島願人は明治以前はそれほど卑しめられなかったようですが、どちらかというと放浪者としてここへ来た人が聖天を拝んだのではないかと考えられます。
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この山は次々といろいろな霊能者が出ています。

 大正年代ぐらいには泉聖天が繁昌しました。
中世は無辺上人が再興したといわれています。
おそらく以空以前に無辺という者が聖天の信仰をもって信者を集めて、その次に以空上人が来たとおもわれます。
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 お寺に残っている境内図では撞木造の聖天聖が洞窟にさしかけたようになっています。聖天堂の上に三重塔が描かれていて、その横を奥の院への道が通じています。奥の院というのは五剣山です。「山絵図」を見ると、山の状態がたいへんよくわかりますが、そこここに何々窟と書いてある文字は、ほとんど剥落 して読めません。
 

窟には二つの用途があります。

一つは住むところ、一つは本尊を安置するところです。
それから、室戸岬の洞窟にはお供の人が住めるようなところがもう一つ付いています。修行者はお供の者に炊事をしてもらって、そこで食事をしながら行道をしたり火を焚く行をしたとおもわれます。室戸岬の場合は、その窟が「みくりや洞」、いまの「みくろ洞」です。
 弘法大師のお供をしたみくりやの神様が、のちに愛慢愛語という名前で高野山の奥の院に仏縁としてまつられたことが中世の記録に出てきます。現在は愛慢愛語のかわりに味試地蔵がまつられています。いま御供所の横に官試地蔵がまつられているのは、かつての「みくりや洞」がそれを表しています。
 
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もう一つは、一夜建立の洞といっている細い洞窟に本尊の虚空蔵菩薩をまつっていました。つまり虚空蔵が保存されている一夜建立の洞と、みくりや洞と、神明窟、それから何もない洞、この4つの洞があります。
 ハ栗寺の洞窟の場合はおそらく居住区です。
籠りのある小さな洞窟は真言を繰る洞だったようです。
現在では七番目の行者の像があります。