勧進聖達の活動と浄瑠璃寺

 
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四国に来た無名の遍路が帰るところもないので、空き寺があるとそこに寄って、空き寺を復興するために勧進をしました。新しく寺を建てるには費用が要ります。
写経をするにしても、紙や筆や硯を買う費用が必要です。
写経僧に法華経八巻なり大般若経六百巻を書いてもらうためには、お金や米を集めなければなりません。それをするのが勧進です。本来は、お前さんは念仏をしなさいと勧めることが勧進だったとかもうのですが、しかし、物を集めることも勧進です。

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 たとえば行基菩薩が山崎の橋を架げたり、木津の橋を架けたりするときも、労力を提供する人を食べさせなければなりません。もちろん材料として材木も買わなければなりません。お金平物を集めるために、これに参加した人にはこういういいことがあり、参加しなかった人にはこういうたたりがあると説いたのが、『日本霊異記』に残っている行基集団の勧進の説話だとおもいます。
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 浄瑠璃寺は元禄年間(一六八八-一七〇四)の山火事で延焼し、本尊や脇仏などをのぞいてほとんどが焼失しました。その後、尭音というお坊さんが願主となって天明年間(一七八一-八九)に再建したという伝えがあります。浄瑠璃寺に行くと、その本堂が現在も残っています。尭音は、土佐街道の八か所に橋を架け たということで、現在、松山にいちばん近いところに供養塔が建っています。
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 『四国偏礼霊場記』も、困ったとみえて「此寺興廃しらず。おしむべし」と書いています。したがって、縁起未詳です。
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