四十七番の八坂寺と番外寺院徳盛寺は、衛門三郎の出身地争いをしています。

衛門三郎は、はじめ悪人でしたが、のちに改心して四国遍路をした、四国遍路の開創だといわれている人です。衛門三郎は弘法大師にめぐり合って、弘法大師に看取られて死にました。焼山寺の麓にある銀杏の生えた庵で死んだということになっています。
もちろん彼は架空の人物ですが、この伝承は弘法大師の辺路修行にお供をした者があるということを暗示しています。修行者はひとりでは何もできません。食べ物を用意してくれたり、行の準備をしてくれたりする人達が必要です。サポートする者としては、修行者に帰依してお供をする道心、修行者がかわいがっていた童子と呼ばれる(あるいは行場にいちばん近い村の人々などです。衛門三郎は道心に当たります。)

『弘法大師伝』の中に、室戸で弘法大師をサポートした者として愛慢愛語菩薩が出てきます。愛慢愛語菩薩は夫婦であるともいかれています。こういう者がもとになって、衛門三郎の伝承ができたのでぱないかとおもいます。
八坂寺と徳盛寺が、衛門三郎をたがいに争っているのは、ちょっと頬笑ましいものがあります。八坂寺は、地獄極楽堂という信仰と教訓を兼ねたような施設を造っています。

八坂寺の本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代のものだということで、重要文化財に指定されていま すので、なかなか拝観できません。ここをまつったのは八坂氏という山伏と伝わります。
熊野十二所権現をまつったということですから、やはり熊野信仰がここに及んでいたことがわかります。松山に南から入ると、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺があり、一つ山を越えると繁多寺、町に入ると石手寺と六か寺が固まっています。西林寺もよくわかりませんが、浄土寺と並べて考えますと、浄土寺は西林山三蔵院浄土寺と西林を名乗っているので、あるいは両方がダブつているのかもしれません。どちらも周囲がすっかり開発されてしまいました。

コメント