熊谷寺-御詠歌からわかる千部法華会

八番の熊谷寺は海洋宗教の辺路のお寺らしく海が見え幽逡で、しかも僧坊のあるお寺です。 本尊は千手観音です。千手観音は海や湖に関係があるところにたくさん見られます。千手観音の立像が帆掛け舟のように見える、手がいっぱい付いているのが扇形の帆を掛けたように見えるところから、海辺の千手観音には海の信仰、あるいは船の信仰が係わっているのかなと想像したりします。

熊谷寺には千手観音と同時に補陀落信仰があります.
これもやはり海の信仰です。したがって、補陀落渡海をする人は、この千手観音の像を船の舶先に付けて、風を待っていました。季節風を待っていたのでしょうが、風が同じ方向に三日も四日も一週間も吹くような気象条件のときに船出したと、平安時代の『台記」に書かれています.
熊谷寺も海が見えますので、千手観音が海の観音としてまつられていました。

ご詠歌の「薪とり水 熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため」
には少し意味があります。この歌だけでは、どうして熊谷寺で薪をとるのだ、薪をとって売っていたのかということになってしまいます。しかし、このお寺には千部法華会があったという記録があるので、「薪とり」の意味がわかるのです。そういうものを踏まえて御詠歌が作られています。

薪を取ることがすなわち難行苦行なのです。
日本人は苦行の宗教として法華経を受け容れました。
日蓮は、法華経を読むということは迫害されることだという意味のことを何回もいっています。迫害を受けること自体が法華経を読むことだ、経文を理解することではないといっているのは、鎌倉時代の思想として非常におもしろいとおもいます。
奈良時代以前から山岳修行者が法華経を読んでいた形跡があります。
平安時代に入りますと、法華経を実践する法華経の行者が現れます。
平安時代末期の今様の中に「妙法習ふとて、肩に袈裟掛け年経にき、峯にのぼりて木も樵りき、谷の水汲み、沢なる菜も摘みき」とありまして、薪をとったり、菜を摘んだり、水をくんだりして、自分のお師匠さんなり仏さんなりにお仕えして、はじめて法華経が自分の身に付いたという歌があります。
その歌を歌いながら、法華八講という法華経の講説をするのですが、みんなが薪を担いで本尊さんの周りをぐるぐる回るのを「薪の行道」といいます。
それが御詠歌にある「薪とり」の意味です。

四国の札所にまで法華経実践の千部法華会の思想が入っていたというのは、たいへんおもしろいことです。薪をとって水をくんだという「みずくむ」を「みずくま」とかけて、「水熊谷の寺に来て」となるわけです。それは同時に難行苦行ですから、「難行するも後の世のため」、難行をするのは現世のためでもあり、後の世のためでもあるという意味になります。
水をくむということから水熊谷の熊谷となったのに、この寺の縁起では、弘法大師が山中の闘伽ヶ谷という泉で熊野権現に会ったという話になっています。
ここは非常に水の豐かなところで、二つの大きな川が左と右のほうに流れています。そしてかなり坂を下りた低いところにお寺があります。その水源の闘伽ヶ谷で熊野権現に出会ったということから、また小さな熊野社もあるので、ここにも熊野の影響が及んでいるといえましょう。妙法は法華経の妙法で、妙法山は那智から海のほうに登る山です。したがって、法華経を実践する人々が熊野を開いたといっていいわけです。

熊野信仰が非常に強いのは東北地方です。
陸路を歩いていたのでは、あのように広まるわけはありません。仙台の西の名取の熊野神社は大きな神社ですが、そういうところは船で行ったらすぐの近いところです。それから、非常に熊野信仰の強いのは隠岐島です。これも船を考えないといけません。鎌倉時代にはすでに沖縄に熊野神社がありました。那覇でいちばん大きなお宮の波上宮は岬の突端にあります。
こうしたものを縁起にするときは、弘法大師が熊野権現に出会って、という話になりますが、事実としては熊野からきた山伏たちがこういうところに寺を開いたのでした。

修験のもつ寺に行きますと、仏像はたいてい小仏像です。
修験たちは笈の中に小仏像を入れて持ち歩きました
山伏が落ちついて寺を開く場合は、大きな本尊を彫刻したり、あるいは彫刻してもらって、自分が携帯していた仏像を胎内仏として納めてまつりました。
『四国徊礼霊場記』は、この寺の境内の幽逡をほめて「谷ふかく、水涼し。南海一望に入」と書いています。この場合の南海は紀伊水道です。
鎮守は熊野社と八幡社で、このことからも修験によって維持された霊場であることがよくわかります。かなり坂を登らなければならないお寺ですが、登ると本堂があって、さらにもう一つ上に大師堂があります。
このお寺の信仰行事に法華千部読誦による開帳がありました。
これを何年かに一度やっていたけれども、『四国偏礼霊場記』を書いたお坊さんが行ったときは、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していたと書いています。
坂の途中に羅漢堂と多宝塔がありました。ところが、本堂もすべて昭和二年に焼けて、昭和十五年に再建されました。

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