藤井寺 本尊の薬師如来は四国最古

弘法大師は太龍寺や室戸で修行を行ったと自ら書いています。その際のルートとして考えられるのは、故郷の善通寺から大窪寺に出て、そこから切幡寺に下がってきて、吉野川を渡り、この藤井寺をから焼山寺に登って行くルートです。それは現在の歩き遍路のルートと重なってきます。
焼山寺は一つ飛び離れた山の中ですから、どっちからどう行っても、かなり戻ります。そういう場所ですから、巡礼は焼山寺に行って、それから十三番の大日寺に戻ってきて、徳烏の郊外をぐるっと回つて、小松鳥に出ていくということになります。

藤井寺は禅憎がいたところです。
本尊は薬師如来で、臨済宗妙心寺派です。
御詠歌は[色も香も無比中道の藤井寺 眞如の波の立たぬ日もなし」です。
無比は実際には無非と書かないといけません。
「色も香も無比中道」というのは、華厳経の中にある文句で、中道を説いた部分に「一色一香無非中道」という文句が出てきます。
中道というのは、実践することによって、いいとか悪いとか、あるとかないとかという対立概念をすべて超えてしまうということです。中道という覚りを覚りきらないときは、それぞれ区別があって、これは好きだとか嫌いだとか、いいの悪いのという差別をもってしまうけれども、中道という覚りを覚ってしまうと、すべてが平等になり、差別を超えてしまうというのです。

「二色一香」は、色と香だげをいっているのではありません。
色・声・香・味・触という人間の五感が、それぞれ中道になるという意味です。
われわれが見たり聞いたり触れたりするものが、すべて覚りになるわけです。
仏教という宗教が言葉をもてあそぶといわれる所以は、言葉がきれいすぎて上滑りするのではないかとおもいます。お説教でも学問のある和尚さんの話よりも、木訥な人の話のほうがよく身にこたえます。
それはさておき中道とは覚りの一つの別名だとおもいます。それがこの歌の意味です。
藤井寺では何かあっても水が流れても、すべて中道だといっています。
この寺のご詠歌は「一色一香無非中道」という華厳経の言葉を入れた、なかなか難しいものですが、何かあってもすべて中道だという意味です。

縁起では弘法大師修行のところだといっています。
その遺跡が寺の後ろの八畳岩というところに残っていて、立派な杉の本があります。そこから焼山寺に行く道があるので、若き日の弘法大師が善通寺から焼山寺を経て室戸岬への辺路修行をした可能性があります。その場合はかならず通過しなければならない道です。

平安時代にはよほど栄えたらしく、本尊の薬師如来像はたいへん立派です。
久安四年(1148)という平安末期の年号が入っていて、もちろん重要文化財です。しかし、それ以外のことは不明で、天正年間の兵火ののちは復興も遅かったようです。
『四国辺路日記しには
「地景尤殊勝也、二千門モ朽ウセテ礪ノ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礪モ残テ所々二見タリ、今ノヅ(二問四面ノ草堂山、・……庭ノ傍二容膝斗ノ小庵在、其内方法師形ノ省一人出テ、仏像修川ノ勧進ツ云、各奉加ス」
とあるので、たいへんながめがいいところだったようです。
しかし、お寺も礎だけ、本堂も礎だけです。お寺というのは最初は庫裡です。
たいへん小さな庵があって、その後ろに仏像の破片が山のように積んであると書いているので、朽ちるままに放置しているというか、復興しなかった。廃屋がっぶれるようにこのお寺もつぶれてしまいます。
そこ一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいというので遍路の者にお金を勧進したりして、みんなが勧進したわけです。

それに対して後の『四国偏礼霊場記』のほうは、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。『四国辺路日記』が書かれて『四国偏礼霊場記』が書かれるまでの35年余りの間に復興が進んだようです。
その後、天保二年(1831)に焼失しますが、間もなく再建されたのが現本堂です。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興すれば、その寺は禅宗になるので、修験山伏が寺をもっことは近世は少なくなります。
そのかわり修験山伏は神主になります。つまり、神社の別当寺に入って坊さんと神主とを兼ねる者が現れたわけです。

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