常楽寺―奥の院の十一面観音と立木地蔵
十四番の常楽寺の御詠歌は
「常楽の岸にはいつかいたらまし 弘誓の船に乗りおくれずば」です。
常楽寺の名前を取って常楽と詠んでいます。
常楽我浄といって、永遠に変わらない楽じみです。
永遠の仏である弥勒菩薩に救われれば常楽の岸に着くことができる。
しかし、それも弘誓の船に乗り遅れたらダメだ、乗り遅れなかったら行けるといっていますが、弘誓の船というのはどういう船かわかりません。
おそらく信仰すれば、それが船なのでしょう。
縁起は、弘法大師が弥勒像を作り、真然僧正という弘法大師の甥に当たる人が金堂を建てたと書いています。真然僧正は高野山の伽藍を完成した人です。
講堂、三重塔、仁王門を建てたという祈親法師は、高野山が焼けたときに伽藍全体を再建した人ですから、高野山の伝記をこちらへもってきたのでしょう。この講堂、三重塔、仁王門を建てたといういささか大げさな縁起は、高野山の縁起を真似た疑いが濃いとおもいます。
『四国偏礼霊場記』も『四国辺路日記』も縁起を記さず、草堂一宇としているので、近世初期は荒れ寺であったことがわかります。
歴史としては、『四国偏礼霊場記』に「此寺本尊弥勒菩薩、大師の御作也、むかしの本堂七間四方と見たり。いまに石ずへ存せり」とあります。この礎石は、いまは見えません。
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず」と書いているので、住職もいなかったようです。
さらに、「古句を思ひ出、愧帳八興亡無二問処へ黄昏啼殺。樹頭。鴉」と書いています。惘帳は、たいへん嘆かわしいという意味です。啼殺は鳴き殺すということですが、やかましく鳴いているということだとおもいます。この寺が興ったり亡びたりしたのはその歴史をたずねるところもない、夕方、木に止まった烏が鳴いているだけで入っ子一人いなかったとあるので、いかに荒れていたかということがわかるとおもいます。
現在は入口の石段を登っ正面奥に本堂があります。これも明治初年期頃のものと思われます。右手に愛染堂、大師堂、地蔵堂、庫裡が並んでいます。
大師堂の前に一位の大木があります。一位の木をアララギともいいますが、これに向かって祈れば眼の病が治るというので、「アララギ大師」といっています。一位は神主さんの笏を作る木です。ここでは一位の木を箸にして分けてくれます。
ここには奥の院があります。
奥の院の成立にはいろいろなものがあるということを考えなければいけません。
隠居寺が奥の院と称している場合もあって、八十七番の長尾寺などは隠居寺を奥の院といっています。大日寺の奥の院のように、もとそこに寺があったという旧寺地を奥の院とすることもあります。
ここの場合は、よくわかりません。札所を二か所もっているとお賓銭も二倍になりますから、番外札所のようにして、奥の院をまつっていたのではないかと私はみています。ここの奥の院をおすすめするひとつの理由は、十一面観音が非常に古い、たぶん平安時代だと考えられるからです。それから地蔵堂の地蔵さんが、立木の中に彫り込んでありまして、そのからくりを知りたいものとおもっております。
立木に仏を彫るのは遊行者に非常に多い一つの伝統です。
円空も大木を彫って、仁王さんにしています。
飛騨高山の千光寺というところの山門は、立木に仁王を彫っています。木瞼行雄という人も各地で立木を彫りました。
山梨県下にもたくさん立木を彫っているところがありますが、みんな枯れてしまっています。その人たちは枯れるとおもわないで、仏が生きているということを示そうとおもったのでしょう。生きた木に彫った仏ならば、仏さんが生きているだろうという遊行者の伝統があったのではないかとおもいますが、よくわかりません。

コメント