鶴林寺の寺名の由来は、

弘法大師がこの山で修行中に二羽の鶴が仏像を木の上で守っているのを見つけた。
その仏像をおろすと黄金の地蔵菩薩像であった。大師はそれを胎内仏にして地蔵菩薩を作って、それを本尊とする寺を建てたということになっています。
じつは、鶴林というのは、お釈迦さんが亡くなった場所です。
したがって、お釈迦さんが亡くなった場所を寺号とし、説法した場所霊鷲山を山号にしておりますから、あきらかに釈迦信仰の寺だと考えられます。かつてこの寺が地蔵菩薩の前にお釈迦さんを本尊とする寺だったということがわかります。
お釈迦様が亡くなられたのは践提河という川のほとりです。
お釈迦様はその川を渡るときに水を飲もうとされました。水を飲めば治ったらしいのですが、そのとき川上を牛の大群が横切っために、川の水が濁ってしまって飲めなかった、そのまま向こう岸に上がって草の上に横たわり一昼夜を過ごされて2月15日の明け方に娑羅双樹の林の中で亡くなったくなったと涅槃経には書いてあります。

現在、これが娑羅だという木かありますが、たんなる夏椿で娑羅双樹とは違います。仏教経典では娑羅樹の間に寝て、涅槃と同時に娑羅双樹が鶴のように真っ白になったと書かれているので、釈迦の涅槃を鶴林というのです。
つまり鶴林寺の鶴林というのも釈迦ですし、霊鷲山は釈迦のいちばん大事な最後の説法をした場所です。そういうことで、現在本尊は地蔵菩薩ですけれども、もとは釈迦を本尊とする寺だったと推定できます。

「しげりつる鶴の林をしるべにて 大師ぞいます地蔵帝釈」という御詠歌は、
鶴の林をしるべにお大師さんが、ここにいたという意味だとおもいます。
地蔵というのは地獄の救済の仏です。
また帝釈天は閻魔さんの代わりの仏で、天といいますからインドの神様ですが地獄の裁判官ということになっていて、だいたい閻魔さんと同じです。そういうことで、地蔵と帝釈天というから、地獄谷の信仰があったのかもしれません。しかし、これは現在は失われてしまっているので、御詠歌も意味がとれなくなっています。

順路をたどっていきますと四国霊場をめぐる遍路の謎が解けてきます。
焼山寺山は西北西、太龍寺山は南東南、鶴林寺山は正東です。空海の青年時代の修行路はこの二つの山を経て、二十三番の日和佐の薬王寺で海岸に出て、それから海岸をずっと室戸岬まで出ていったものと推定できます。
こういう順序で弘法大師が歩いたとすると、恩山寺のようなお寺は、その他の理由で札所になったと思います。空海の時代は、立江寺まで海岸だったと推定できますが、恩山寺の麓までまで水がきています。そして、恩山寺から真東に見える金磯という磯が本尊が上がった奥の院ということになります。

「四国偏礼霊場記」は、縁起として、
弘法大師がこの山で修行中に、本尊降臨杉で二羽の白い鶴が翼で何かを覆い護るのを見た、登ってみると黄金の地蔵菩薩像があった、大師はこの小像を胎内仏として長三尺余の地蔵菩薩像を彫刻して、これを本尊とする一宇の寺を建てたと伝えています。本堂の裏にある本尊降臨杉という杉の巨木は本当に見事です。太龍寺、焼山寺とともにまことに立派な杉があるお寺です。鶴が本尊を護っていたということから鶴林寺と命名したといわれています。
その後、真然僧正が七堂伽藍を完成したという話は、おそらく弘法大師の高野山の話をもってきたのだとおもいます。弘法大師が開いた高野山の七堂伽藍が完成するのは、弘法大師の甥御さんの真然僧正のときです。各宗の祖師は、自分の身内に俗別当と称する寺の財産の計算係をさせたりしています。東寺の俗別当は弘法大師の母方の甥に当たる一族で、今でも続いています。
それと同じように、真然を高野山の跡継ぎにします。最初はもう一人の甥(知泉)を跡継ぎにしたのですが、この人は37歳で亡くなってしまいます。高野山の歴史を見てとってきたといえます。

もともとの釈迦信仰は源頼朝・義経の信仰あたりから地蔵信仰に変わります。
阿波の領主三好長治、蜂須賀家政の保護を受けますが、本尊が「矢負地蔵」と呼ばれているのは、地蔵が戦争のときに義経の身代わりになって矢を受けてくれたというので、身代わり地蔵の信仰があるからです。
さらに、伊勢の神主が暴風で小松島まで流されたときに、船を守ってくれたのが鶴林寺の地蔵だということから、「波切地蔵」という名前ができました。
このように、地蔵そのものも霊験が多いというので信仰されました。ところが、釈迦のほうは、仏法を説いたという以外はあまり奇瑞のない仏さんです。奇跡、奇瑞、霊験がないと、信仰が生じがたいのです。

地蔵菩薩以前に鶴林寺に釈迦如来がまつられていたと仮定すると、
法華経と涅槃経を信仰する修行者の開いた山だということができます。
そういう古代寺院があったところに地蔵信仰が入ってきたものとおもわれます。
もうひとつは、山岳信仰です。山の中に地獄谷があるので亡くなった人の霊魂が地獄で 受げる苦しみを代わってくれるという信仰があったのかもしれません。
この山の狩人が猪を射たとおもって一つの堂に入ると、地蔵菩薩の像に矢が当たって血を流していたという話は、山の神、あるいは地蔵の代受苫信仰です。その狩人が発心入道するということは、すなわち狩人の地蔵信仰が釈迦信仰にとって代おったと考えてよいのです。
また、これが山人、修験の信仰であったことは頼朝寄進の錫杖があったことに表れています。頼朝のころにこの地蔵を守っていたのは、山岳宗教か修験山伏であったということも推定できます。
また、伊勢の神官の福井氏の船が、暴風にあって難破しそうになったとき、この地蔵菩薩が出現して小松島に導いてくれたというのも、鶴林寺の火が見えたということをいっているのだとかもいます。そうすると、これは海洋宗教に関係があります。

縁起では伊勢の紀伊の神主福井氏は、毎年灯明料を寄進したということになっています。この山の常灯明が海から見えて、それに導かれて助かった、それで伊勢の神官が以後毎年、灯明料を寄進したということになれば話はつながります。
堂舎でいちばん古いのは本堂です。
慶長五年(一六〇〇)にできた建物が現在残っています。札所の建物はたいてい古いものは残っていませんが、このお寺はよく残っています。
鎮守は熊野神社で、古い熊野信仰は海の信仰と考えてよいのですが、文政十年(1828))に再建されたものですから、あまり古くありません。本堂をもう一つ上がりますと聖天堂がありまして、ここは山神をまつったと考えられる場所です。
庫裡の半分は坊さんの住まいになり、半分は持仏堂を兼ねた大師堂です。庫裡の玄関の横に納経所があります。大師堂の右に続いて護摩堂があります。

いちばん古い遺物は圭頭型の高さ1メートルの町石です。
お寺の説明でぱ南北朝時代のものだといっています。高野山の町石は鎌倉時代ですが、南北朝時代の町石というのはわりあい多いものです。

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