大宝寺は、もともとは岩屋寺と一つのものでした。

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町の中にある大宝寺の裏山を五㎞ぐらい行くと岩屋寺に出ます。
 この道は、今はほとんど使われなくなりました。この道を終えると『一遍聖絵』の岩屋寺の景色が見られます。これは四国霊場中の圧巻です。また、『一遍聖絵』の傑作の一つになっています。
 一遍聖絵』の詞書は、一遍の実子の聖戒が書きました。
聖戒は一遍が還俗したときに生まれた子どもで、お父さんの弟子になって十六年間お父さんと一緒に歩いています。しかし、その間に親子の名乗りをしなかった。死ぬ前に呼んで話をした以外は特別扱いしなかったというので、江戸時代から石童丸と刈萱道心の話昿一遍と聖戒の関係を下敷きにしたのだといわれています。
 聖戒は自分のお父さんの十六年の足跡を絵師を連れて歩きました。最近、円伊という絵師がどういう人であるかということもわかってきました。なかなか位の高い坊さんである円伊にその都度スケッチさせています。
 
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 このように、大宝寺と岩屋寺を奥の院と札所という関係に見立てたので、両方を合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋という非常に大きな洞窟があります。一遍が寵ったのはどちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。
  
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 「一遍聖絵』は「菅生の岩屋」として大宝寺と岩屋寺の縁起を書いています。
普通、四国霊場の縁起は元禄元年に書かれた『四国偏礼霊場記』によっていますが、幸いにも大宝寺と岩屋寺については鎌倉時代の『一遍聖絵』の詞書が残っています。
 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。
此寺は文武天皇の御宇、大宝元年四月十八日、
猟師山中に人しに、岩樹撃動して紫雲峯渓に満、一所より光明閃射せり。
其所を訪ふに、忽ち一仏像あり。
即十一面観音也。生ぜる菅を斑まします。其所に就て堂やうの事をいとなみ、
菅を掩、安置し奉り、其猟師といへるもの、白日に天にのぼれり。
是を高殿明神と斎祀す。菅を斑ましますが故に、菅生山と号し、
大宝年中の事なるが故に大宝寺と称す。
 文武天皇の大宝元年は701年で、藤原京の時代です。
猟師が山の中に入ったところ、岩や木の間から光がさしていた。そこを見ると仏像があったといいますから、感得の縁起です。光るものがあったり音がしたり、つまり何らかのお示しがあって、行ってみたらそこに仏像があったというのを仏像を感得するといいます。
 「一遍聖絵」では、猟師は弓と矢をもっていたので、弓を柱にして、自分の着ていた蓑をかけて仏像をまつってお寺を建てた。両三年を隔てて行ってみると菅の根が生えて茂っていたと書いています。菅が生えたお寺だというので、最初は菅生寺と呼ばれたお寺が、のちに岩屋寺と大宝寺に分かれたわけです。大宝寺は、このことが大宝年間のことなので年号をとって、大宝寺としたと書かれています。
 その仏像は十一面観音で、『四国偏礼霊場記』では、菅を敷いて仏像を置いた、簡単なお堂のようなものを造って、さらにその上を菅で覆って安置し奉った。その猟師は天に昇って神様になった、それが高殿明神だと書いています。これは『一遍聖絵』に出てくる野口の明神と同じものを指しているとおもいます。

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 寺伝によると、元禄年間(一六八八-一七〇四)に本堂を中心に、向かって右に赤山権現と天神社、向かって左に三嶋大明神、耳戸明神、阿弥陀堂、文殊堂、百々尾権現社が一直線に並んでいたとされています。
 そのほか弁天社や十王堂、十二坊がありました。現在は十二坊はありません。
『四国偏礼霊場記』の挿絵には、登ってくる入口に一ノ王子、ニノ王子という王子社が出てきます。これも現在はありません。
 
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  じつは、山岳宗教の前に辺路をめぐる行がありました。
これがやがて辺路が遍路に変わります。
『今昔物語集』では辺地と書いていますが、江戸時代半ばに「辺路」が「へんろ」と読まれるようになり、文字も遍路に変わったのだろうとされています
 四国遍路の札所は海岸や島にあったり、海が見えたりして、海岸となんらかの関係をもっていることが条件です。太龍寺や焼山寺はかなり山の中にあるのに、ちゃんと海が見えます。   

参考文献 五来重:四国遍路の寺