海岸山岩屋寺
海から遠いのに山号は「海岸寺」
岩屋寺は、石鎚山の南側の山懐に包まれていますから、海が見えません。
しかし、岩屋寺の山号を海岸山と付けたのは、やはりわけがあったのです。
寺峰と洞窟が辺路修行の行場であったことは、海岸山の山号で知ることができますが、その由来として弘法大師が詠んだ歌があります。
いまの不動さんを歌った御詠歌の前に、「山高き谷の朝霧海に見て 松吹く風を波にたとへむ」という御詠歌がありました。
谷間に朝霧が立ちこめている有様は、まるで海原のようだ、だからここは海岸山だといっています。また、江戸時代の絵によると、岩屋寺にも龍燈杉があったことがわかります。したがって、海のかなだの龍神に火を捧げたといういわれもあり、海岸山と名づけたことは明らかです。
岩屋寺はもう一つの特徴をもっています。
岩屋寺の右のほうの金剛界の峰の下に、本堂の不動堂と大師堂が並んでいます。
あたりは岩壁で、不動堂のすぐ横に仙人窟という大きな洞窟、
その少し上に阿弥陀窟という洞窟があります。
そのほか、「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があります。窟だらけの山を子細に見ていくと、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。
これは命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐった行道の痕跡だと思われます。
『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。
不動堂の上の岩窟。をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり。
長四尺あまり。銅像なり。于に征鼓を持。是を阿弥陀といふ。
凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相、
経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり。
むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。
岩屋寺は不動堂が本堂です。「征」は念仏のときに下げてたたく鉦です。
征を下げた阿弥陀様はありませんので、おそらく空也の像ではないかとかもいます。円応無方は融通無碍と同じ意味で、丸くて何にでも応じて形を変え、定まった姿がないことです。仏様は三角にも丸にも空也にも親鸞聖人にもなるわけです。
仏の現れた姿はお経や儀軌に出ている、自分勝手に伝えるわけにはいかない、空也上人の像を建てて、これは阿弥陀様だというのはいけないと書いています。
阿弥陀様は、江戸時代か鎌倉時代か定かではありませんが、まだ道があったころ納めた仏様で、行けなくなったので、飛んできた仏様だということになっています。
しかし、もとは人間が行って納めたに違いありません。
そういう行道があったということは、ここで辺路修行をしていたということです。
海岸に烏帽子岩のような岩と洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をした痕跡が各寺の奥の院に見られます。
日本は非常に長い海岸線をもった国です。ひとびとが内陸部で耕作をして住石以前のこと、岸に貝塚をたくさん残しながら生活していました。そういう時代に信仰の対象となったのは、海のかなたです。 海のかなたは常世と呼ばれました。常世は永遠なる世界、年を取らない世界です。二十歳で死んだ人は、いつまでたっても二十歳です。
海岸で生活していた時代の死者の葬法は水葬だったとおもいます。
水葬された霊は海のかなだの常世に留まります。しかし、だれもそれを見たことがありません。みんな常世がどういうところか興味があるので、だれかいってきた人がいないと困るわけです。
雄略天皇の二十二年に常世にいってきた人の名前が出てきます。
時代がひとつの物語を生んだということでしょう。その人の名は余社郡の管川の浦嶋子で、綿津見神の化身の亀に連れられて常世にいってきたというのです。また、海の神様のいる常世にいくには、何かいいことをしてお迎えを受けなければいけないということから、亀を助けたという話になっております。
室町時代にできた御伽草子では、それが浦島太郎の話になりました。
古く『日本書紀』では、海神そのものが女です。
海神の娘といっていますが、じつは女の神様が亀に化身して陸の男と婚姻したわけです。浦島太郎が亀を助けて船に乗せたらたちまち女に変わって、夫婦になって一緒に海神の都に行ったという話になっています。
海神の都がのちにいう龍宮です。
『日本書紀』では蓬莱と書いて「とこよ」と読ませています。
『万葉集』の歌も『丹後風土記』も同じですから、そのころは龍宮という言葉はありません。
龍宮という言葉が出るのは室町時代の御伽草子です。
なぜ龍宮という発想になったのかをいろいろ考えると、法華経の巻五の提婆達多品に出てくる龍王の成仏の話がもとになっているようです。
『風土記』などにも、海のかなたからいろいろなものがやってくるという話が出てきます。いちばんよくやってくるのは弥勒と夷です。夷は、のちになると恵比寿というめでたい字を当てたために違った感じになりますが、遠いところから来た者、つまり外国人ですから、やはり海のかなたから来るわけです。そして、陸にいる者が魚がたくさん欲しいとおもえば豊漁をもたらし、豊作にしてほしいとおもえば豊作の神になりました。お金が欲しいという要求に応じてくれるのが十日戎の戎様です。夷は民衆の要求に応じていろいろな働きをすると考えられました。
ところが、蓬莱という宇を書いたので、『史記』に出てくる徐福になってしまいます。徐福も海のかなたから子孫を助けにくる神様です。和歌山県新宮の駅前に徐福の墓がありますが、日本の海岸に三十にも及ぶ徐福伝説があるのは、海のかなだの祖先の霊が助けにくるという考え方があったからです。
海洋宗教では、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師として現れます。
一つの決まつたかたちでは民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるのです。
そういう来訪神の考え方から辺路修行が生まれます。
海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、要求する方法があります。それが命がけの行なのです。漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり二十一日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけてくださるのです。
四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が開いたという由来があります。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そのためです。
遍路のもとの言葉が、辺路だということがだんだんわかってきました。
紀州には大辺路・中辺路として辺路の名が残っています。現在は熊野詣には使われなくても、ずっと辺路や王子が分布しています。王子神社が太地にも串本にも周参見にも残っています。海岸の王子には、かなり大きな神社が建っているところもあります。熊野三山に参るのは、たいへん古いことのようですが、それよりも前に辺路があって、熊野三山詣は辺路の一部を利用したわけです。
四国でも同じように辺路修行が行われていて、その一部を青年時代の空海が越えています。『今昔物語集』は、「四国ノ辺路卜云、伊予、讃岐、阿波、土佐ノ海辺ノ廻也」と書いています。
「一遍聖絵」に戻りますが、ちょっと面白い話をご紹介しましょう。
岩屋寺の巌窟に仙人が籠もる話です。
仙人は土佐の国の女人なり。観音の効験あると聞きで、かの巌窟に寵り、
五障の女身を厭離せむ為に、経典を読誦しけるが、
法華三昧成就して飛行自在の依身を得たり。(中略)
又、四十九院の岩屋あり。父母の為に極楽を現じ給へる跡あり。
ここには非常に珍しいことに女の仙人が出てきます。
女の仙人の話は『今昔物語集』に少し出てくるだけで、極めてまれです。
五障のある女の身を捨てて、女も仙人になれるということ自体が非常におもしろいとおもいます。法華経を読誦して、法華経の行が完成すると、自由に飛行することができる肉身を獲得するのだといっています。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている、このお寺にそういう仏が出現したと書いています。
「一遍聖絵』の詞書に「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。
仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。さらに五輪塔が一つあって、枯れてしまった木が一本あります。これが生木塔婆と呼ばれる生きている木を塔婆の形に削って、文句を書いたものです。
生木塔婆は大窪寺など、ほかのお寺にもあります。
江戸時代の記録が生木塔婆と書いているのは「碑伝」というものを忘れてしまったことを示しています。洞窟に寵って苦行するときに、二股になった木を選んで、それを削って、自分がこの洞窟に胆ってどういう修行をしたか、これで何回目だということを書いて納めた一種の記念碑のようなものを碑伝といいます。
大峯山随一の秘所といわれる「笙の窟」に籠もった山伏が、笙の窟の能りぱ四度目だということと、自分と同行者の名前を書いた碑伝を、たまたま前鬼森本坊が採集しました。現在は文化財になって奈良国立博物館に寄託されていますが、このことからも碑伝を仙人人定窟に留めていたことがわかります。お寺ではそこには柿経まであったといっています。
納経所が霊場ではありません。
ここでみんな集印帳に判を押してもらって帰ってしまいますが、ここを上かって白山の峰から逼割禅定まで修行しなければ、辺路修行としての遍路は完成しないわけです。多くの参拝者も岩屋寺に行かれますが、逼割にまで行く人は極めて少ない。行こうとしても、あまりにも危険ですから、お寺の住職の許可を得ないと行けません。
よほど精神統一して登らないと、こんな危ないところはないとおもうくらい危ないところです。
このように、従来は説明できなかった問題が海洋宗教という問題からわかってきます。同時に、四国遍路の謎を解く一つの方法にもなるわけです。
参考史料 五来重:四国遍路の寺
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