繁多寺 一遍上人の学問寺 

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 東山の北側に行くと五十番の繁多寺があって、その隣に桑原八幡があります。
四国には八幡さんがらみの寺がたいへん多くて、石竹八幡、先祖八幡、地主八幡など、亡くなった先祖か八幡としてまつります。阿弥陀八幡などもまつられています。東山をめぐって、二つのお寺と二つの八幡があるのは、東山が聖地であったということです。   

繁多寺の奥の院は山の上のお堂でした。

昔は東山の頂上に、修行者のいるお寺かお堂があったわけです。
そこからは松山の西のほうの海が見えます。やがて大勢の信者ができて、修行者に病気を治してもらったり、占いをしてもらうようになりました。
そして、東山の行者たちが里の信者に招かれて、つまり、田んぼや畑のところに下りてきたのでしょう。山の上の寺に対する畑の寺ということから繁多寺という名が付いたとおもいます。ちなみに、そのあたりは畑寺町といわれています。
 
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行者が山の上で拝んでいたのはおそらく薬師如来です。

 南のほうに下りたのは阿弥陀如来、北のほうに下りたのは薬師如来で、薬師如来を本尊にして現在の繁多寺の伽藍ができました。ここにお参りする場合は、ぜひ山の上まで登ってみる必要があります。

   ここの御詠歌は成立年代が不明です。新しいとおもうものが古かったりします。
万こそ繁多なりとも怠らず 諸病ながれと望み祈れよ」
とご詠歌の中に「もっぱら事務繁多です」というかたちで使われる「繁多」という言葉が入っているところをみると、どうも新しいようです。
「諸病ながれと望み祈れよ」というのも、調子が低すぎますね。
 四国遍路のお寺の縁起は、孝謙天皇、称徳天皇、元明天皇と、はるか奈良時代までさかのぼります。縁起つくりの名人がいて、諸国をめぐりながらお寺の需要にこたえて縁起を作ったという話があります。江戸時代に家系図つくりの専門家がいて、「源氏にしましょうか、平家にしましょう」といったそうです。縁起もそういうものかもしれません。
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 繁多寺の縁起は、江戸時代の初期に霊場を記録した『四国偏礼霊場記』に出ているもの以外はほとんどありません。孝謙天皇の勅願によって開かれて、坊舎が三十六坊あったというのも、ちょっと定かではありません。本尊は行基の作だ、とくに護摩堂の不動明王は伝教大師が作ったものだというのは、そう書いてあるだけで、これも信用できないとかもいます。

この寺の由来を考察しますと、

 浄土寺と日尾八幡、繁多寺と桑原八幡があるので、もとは山から海を拝むという山岳信仰から出発したものでしょう。南の谷が空也谷であると同時に、繁多寺は一遍上人の学問寺だといわれています。時宗では一遍上人の学問寺として非常に重んじています。浄土寺に空也上人の木像があるのと同じように、繁多寺には一遍上人の木像があります。一遍上人は、空也の足跡を慕って歩くとたびたびいっておりますから、こんなかたちになったのでしょう。
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 『四国偏礼霊場記』では、鎌倉時代の中ごろの弘安年間に、聞月という住持が復興した。そののち荒廃して、江戸時代に入って龍孤(龍湖)という比丘が本願となって堂舎を修復した。それが現在のお堂だ、本堂、護摩堂、求聞持堂、仁王門、熊野権現、池中弁天堂があったとされています。
いまは本堂の左のほうの護摩堂は毘沙門堂になって、右のほうに弘法大師の大師堂があります。本堂に向かって左手に、本堂と見まがうばかりの唐破風をもった大きな建物があります。これは聖天堂(歓喜天堂)で、徳川四代将軍家綱が拝んでいた歓喜天をいただいて造ったといわれています。どういう縁故で歓喜天をもらったのかわかりませんが、龍孤が歓喜天の行者だったということに関係があるのかもしれません。
   
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歓喜天は非常に怖い仏様です。

ひとたびこれを拝み始めると、一生涯拝みっづけなければなりません。
途中でやめれば、罰が当たるといわれています。龍孤は命がけの聖天講の行者でしたから、あるとき家綱の念持仏を下賜されて、それでこのような大きな歓喜天宰が造られたのだとおもいます。
 本堂の前からは、海がよく見えます。東山の上からはもっとよく見えるので、辺路としての奥の院であったことが十分に推定されます。

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