石手寺―衛門三郎の伝説

 
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石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。
本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。
 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています。 

石手寺は、もとは安養院というお寺でした。

そのため「西方をよそとは見まじ安養の十に詣りて受くる十楽」という御詠歌があります。
極楽に行くと十の楽しみがあるそうだが、安養寺に参れば極楽の十楽を受けることができる、という意味です。
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 四十七番の八坂寺にも衛門三郎の伝説があります。

 食べ物を求めた托鉢僧に乱暴をふるまったため、衛門三郎の八人の子どもが頓死したというものです。石手寺の縁起では、衛門二郎が石手寺の開創の伊予の国司の河野氏の子どもとして生まれ変わってきたことになっています。
当国浮穴郡花原の邑に右衛門三郎といふ人あり。四国にをいて富貴の声聞あり。
貪欲無道にして、神仏に背けり。男子八入ありしに、八日に八人ながら頓死す。
異説あり。是より発心し仏神に帰し、家を捨、霊区霊像を遍礼せり。
阿州焼山寺の麓にて恙を抱て死に臨めり。時に我大師ここに至り玉ひて、
発心修行の事を歎じ、汝当来の願ひいかがととはせ玉へば、
この国にて河野氏に勝れる人なし。われ彼が子に生れん事を欲すとぞいひげる。
大師小石に右衛門三郎と名を書付に賢らしめ玉ふ。既に命をはりて其所に葬る。
いまに其塚あり。扨月日をへて国司河野氏の男子に生る。彼石を左の手に握れり。
右衛門三郎の後身なる事、人みなしれり。其名を息方と号す。
羊砧円沢のためしよりも正し。此息方当社権現を崇敬し、神殿拝殿再興し、
手に握る所の石を宝殿に納めて、後世に伝ふ。
 罰が当たって八人の男の子が一日に一人ずつ死んでいったので、衛門三郎は発心して四国八十八か所を回りました。ここから八十八か所の始まりは弘法大師だという説と並んで、衛門三郎だという説が出てきます。「恙」は病気のことです。恙なしというのは病気がないということです。
「歎じ」は嘆くのではなくて賛嘆するという意味です。
弘法大師は、衛門三郎が悪逆無道であったけれども、発心して諸国をめぐって修行したことを賛嘆したわけです。来世はどうしたいかと聞くと、河野氏の子に生まれ変わりたいといいました。

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  伊予の名門となる河野氏が、伊予の北半分の国司の地位を鎌倉幕府から与えられるのは壇ノ浦の戦いのときに、源氏方に付いた恩賞です。ところが、承久の変のときに後鳥羽上皇に付いてしまったので、河野氏は没落します。その結果、名前だけは残りました。
 その時の通信は、奥州江刺に流されますが、長男の通広が伊予に留まって坊さんになりました。その子ども、すなわち通信の孫が一遍上人です。これも出家して太宰府の聖達上人に弟子入りします。
 この経緯から「衛門三郎の伝説」が生まれたのは河野氏が没落する以前の承久の変より前の話として、この縁起を受け取らないと「河野氏に勝れる人なし」というわけにはいきません。
 
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鎌倉時代に安養寺から石手寺に変わります

 当時は熊野十二所権現を勧請し、寺坊六十六を数える大寺でした。
 記録をたどると、村上天皇の天徳二年(九五八)に伝法濯頂が行われ、源頼義、北条親経に命じて伽藍を建立し、永保二年(一〇八二)には天下の雨乞いを行ったということになっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、かなり栄えた寺であったと想像できます。
寛治三年(1089)に弘法大師御影を賜って御影堂を建てました。これが大師堂です。永久二年に頼義の末子親清か諸堂を修復します。源氏の勢力が伊予に及んでいたので、安芸の宮島と同じように源氏の勢力で諸宗が修復されました。
治承元年(1177)には高倉院から大般若経が施入されています。
元久元年(1204)に十二社権現の祭礼を行ったという記録があるので、このころ熊野権現が勧請されたのではないかとかもいます。それ以前の勧請ではありません。
熊野権現を別当として守るお寺が石手寺ですから、熊野権現が主体で、別当寺はそれに付随したものでした。今治の南光坊も同じような成立のしかたをしています。
弘安二年に十六王子ができたというのも、熊野の王子十六社をここに招いたからとおもわれます。
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熊野の王子はたいへん難しい問題です。

 かつては神様の御子だ、熊野の新宮と那智の神様は伊井諾・伊井再命だから、王子は天照大御神をまつったものだという説が通説でした。しかし、そういうものではなくて、海の向こうから来る神様を王子とではないか、天照大御神というのはむしろ不自然で、常世に去った神悌が夷というかたちで残ったのではないか。子孫を保護するという意味で、食べ物を豊かにする神として戻ってくる。例えば、恵比須様は豊漁の神ですから、そのほうが自然です。 
境内の水天堂には干満水があります。
土間だけの粗末なお堂に、甕が一つ置いてあって、半分ぐらい砂利が入ってします。そこに入っている水は干潮のときはひたひたで、満潮のときはいっぱいになる、といわれていますが、お寺が海とつながっている海洋宗教の寺であることを示しています。
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石手寺の境内は雑然としています。

 雑然としたお寺は庶民が近づきやすい。浅草みたいに、石手寺にも仲見世があって、昭和のころにしか見たことがないようなものが売られています。
 正面に本堂があります。本堂の中には最近作った仏像をたくさん並べています。
円空仏とまぎらわしいようなものが、いっぱい並べてあります。
 本堂の右のほうに大師堂があります。大師堂の左手の裏に兜率天洞という地獄めぐりが造られていて、まっ暗闇の中をめぐって歩くのです。阿弥陀堂は、安養寺の残ったものです。三重塔は鎌倉時代の復興です。それに経蔵、護摩堂、弥勒堂、水大京と並んで、建物はいちおう七堂伽藍がそろっております。
 このお寺は松山市内にあるので、ずいぶん人々に親しまれています。
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