太山寺―鎌倉時代の本堂 

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 松山の西に一つの山脈があります。せいぜい標高二、三百メートルと大して高くないのですが、屏風のように松山市街と海とを隔てています。山の麓にある五十二番の太山寺と五十三番の円明寺は、いずれも山の頂上に奥の院をもっています。太山寺は山懐に抱かれているので、奥の院はすぐそばですが、円明寺は和気という集落へ移りましだから、奥の院までかなり離れています。 
太山寺の御詠歌も新しいとおもいます。「太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へばなんの苦もなし」という御詠歌は、いささか低俗にすぎるものがあります。
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 太山寺については、『四国偏礼霊場記』に次のような縁起が出てきます。 
当寺は天平勝宝年中聖武天皇の御建立なり。本尊は行基菩薩唐土より得玉へる十一面観音の小像なるを、長六尺の尊像を作り、其中に納められしとなり。

 いわゆる腹寵の仏像だというのは非常にありうることだとかもいます。
多くの霊場の仏像は、かつて修行者がもっていた笈本尊といわれる小さな本尊を腹脂にして作られています。このお寺は小さな仏像を本尊にして、奥の院で行をしていた修行者が始めたものだということを忘れないように、笈本尊を入れて作っているという縁起は信ずるに足るとおもいます。
  
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ここには非常に古い仏像と古い建物が残っています。

 本堂は鎌倉時代の建物で、霊場の中でも屈指の古建築です。 
縁起としておもしろいのは、豊後の国の真野長者の伝承です。ちょうど松山と相対して佐賀関があって、そのちょっと南に臼杵があります。
この臼杵の石仏は、真野長者が作ったという伝承があります。
満月寺には、延野長者の夫婦の石像と石仏を作ったといわれる法蓮土人の石像と、合わせて三つの石像があります。真野長者はもとは炭焼小五郎という炭焼きであったが、そこへ都から下ったやんごとなき姫君が嫁入りをした。持参金に小判をもってきたけれども、炭焼小五郎はこんなものは山に行ったらいくらでもあるといって、買い物に行く途中で小判を傑にして池の白鳥に当てた。帰ってきて「あんなものはいくらでもあるから捨ててきた」といった。なるほど金の山だったということで長者になったという話があります。
 炭焼きは、燃料のための炭を焼いているわけではありません。
増蝸で鉱石を溶かすための炭を焼くのが、主な仕事でした。そういう精錬法がなくなりますと、炭は塩焼きの薬として使用されます。暖房用としては、ごく少なかったようです。炭焼きですから、鉱山に関係があって金持ちになったのだとおもいます。
縁起では、豊後の国の真野長者が、船で高浜沖を通っているときに難破しそうになったが、十一面観音に助けられた、あとのほうでは御光で助けられたとなっています。そこで、滝雲山の山頂に一寺を建立して、その尊像を安置します。現在はありませんが、『四国偏礼霊場記』には滝があったと書かれておりまして、太山寺があるあたりを滝雲山と呼んだようです。
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滝雲山は三つの峰から成っていて、第一の峰が経ヶ森です。

そこに本尊の十一面観音があったというので、現在は大きな石像の十一面観音を建てています。登るのがたいへんですから、下から見ましたが、下から見て十分、見えるだけの大きな石像です。山頂は二九〇メートルくらいあるそうで、テレビ塔が立っています。   
第二峰は、護摩ヶ森です。
室戸岬にも弘法大師護摩壇岩があります。辺路修行者は聖なる火を焚いて、海のかなたにいる龍神に捧げました。それを龍燈といいます。聖なる火を焚くということがあったことは、ほぼ間違いありません。
 海洋宗教においては、火を焚きます。神の永遠不滅のシンボルともなりますから、その火を消すことはできません。そういうことで、厳島の弥山の頂上に「消えずの火」を焚いた霊火堂があるわけです。頂上に登ると、霊火堂に大きな鉄瓶がかかって、丸本が焚かれています。それを飲むと長命になるというので、広島からも飲みにいくそうです。   
第三の峰が岩ヶ森です。
これは岩石から成り立っているピークだろうとおもいます。
こういう三つの峰に包まれたように現在の太山寺があります。太山寺に本当にお参りしようとすれば、経ヶ森まで、できれば護摩ヶ森から岩ヶ森まで回って、はじめて霊場に参ったということになるわけです。
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山頂寺院が現在のところに下りたのは、

平安時代の中ごろの康平五年(一〇六二)だと書いてあります。
どういう資料があって書いたのかわかりませんが、少なくとも鎌倉時代に現在の本堂ができたのは確実です。その後、荒廃したのを河野氏が嘉元三年(一三〇五)に復興します。重要文化財になっている現在の本堂はそのときのもので、非常に立派な鎌倉時代の建築で作山寺は二つに分かれています。
 一つは、本坊庫裡のあるところです。一つは、いろいろな堂のあるところです。
江戸初期の絵では、堂が三つ描かれています。おそらく交代で住職を勤めただろうとおもいます。本堂のあるところは、本坊庫裡から約二、三百メートル上がったところです。その中間に門前町がありました。これはかなり変則です。門前町の茶店の一軒が遍路宿を経営していまして、古く珍しい建物として残っています。
 このように、ぽつんと離れていて日常の火から遠かったことが、鎌倉時代の建物が残った一つの理由だろうとおもいます。本堂は南向きで、その向かって右側に護摩堂があります。聖徳太子信仰があったようですが、その理由はわかりません。

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それから、稲荷社があります。

 稲荷は稲荷山のような山の上にできることもありますが、海辺にもたくさんあります。稲荷は食べ物の神様だということです。田んぼの食べ物は稲です。山の食べ物を豊かにする山の神が稲荷になる事例もあります。畑の食べ物を守ってくれれば、野神になります。海の食べ物を守ってくれる神様がいれば海の稲荷になります。それは恵比須になったり、稲荷になったりするのです。
   稲荷のいちばん古い名前は何かということまで追究すると、食の根「けつね」です。食のことを「け」といいます。「つ」は「の」です。根は先祖ということです。じっは大阪の言葉が正統の古語なのです。「きっね」のほうがむしろなまっているのですね。食の根を「けつね」といったのがいちばん古い稲荷の言葉で、けっして動物の狐をいうのではありません。動物の狐は別の理由から稲荷に習合してきます。

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 ここは太子信仰の盛んなところで、最近になって八角の夢殿が建てられています。それから、霊場寺院では死者供養も行われますから、位牌堂を兼ねた十王堂があります。大師堂のほかに厄除大師があります。真野長者堂は非常に古い建物です。
 古図によると、もっともっとたくさんの建物があったようです。

 太山寺には、寛永十七年の納札と、承応口年二月吉日の「奉納七ヶ所辺路同行五人」という納札が残っています。いずれも板札です。
   これは七か所だけの辺路修行があったことを示しています。
あとでお話する円明寺の「仲遍路」という納札を見ても、全部回るのではなくて、中辺路という修行のしかたがあったことがわかります。
 私は、七か所でも結構だとかもいます。それよりも、奥の院まで上がってみてはじめて辺路・遍路の実塙かわくのですから。ぜひ奥までお上がりいただきたいものです。
五来重:四国遍路の寺より
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