円明寺ー賦算札のこと

「仲遍路」の札のあるのが五十三番の円明寺です。
太山寺と同じ西山の北側に位置しているので、奥の院はみな同じ峰だとかもいます。峰が平らなところに下がってきたところにあったようですから、このお寺は海に近かっかようです。
縁起はほとんど未詳ですが、もと和気西山の海岸にあった寺で、これも辺路の寺であったことを示しています。奥の院は聖武天皇勅願によるとされていますが、海に面しか辺路修行者の聖地であったに相違ありません。

奥の院の光景は、いまも大師堂の西壁に打ちつけられている絵馬に見ることができます。ただし、住職に案内してもらわないと、なかなか気がつかないようなところです。大きい絵馬ですが、退色して、墨の描賜が残っているのみですが、昔は堂舎もかなりあり、五重塔もあったことがわかります。
いずれにしても、以前の境内跡が海に近かったことは、はっきりしています。
いまの場所は、海とは反対側に下りてしまいました。海は西側で、お寺は西山の東側の集落の中にあります。このお寺の本尊は阿弥陀如来ですから、おそらく海上生活者の供養仏としての信仰があったのだろうとおもいます。海で死んだ人を恵比須様と呼び、恵比須様を供養すると豊漁になるということから、現在でも豊漁祈願のために南無阿弥陀仏という札を海に流しています。時宗では、賦算札という「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を流したり、人に与えたりいたします。

時宗を開いた一遍上人も賦算をして歩きました。
その図が『一遍聖絵』の中にたくさん出ています。
いまの時宗の本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺で、そこにいる遊行上人が管長さんです。もとは遊行上人に任命されますと、お正月に1回しか自坊の遊行寺に帰社できません。あとは、常に遊行しないといけません。それもなかなかたいへんなことでして、三年か五年くらいで譲ってしまうようです。ただし最近では、あまり遊行しないようですが。
管長さんが遊行されるのは、たいてい漁村です。不漁に苦しむ村から祈願を頼まれると、大勢のお坊さんと船に乗り込んで札をを流すのです。念仏が大漁の祈願に使われるのは、海で亡くなった人の供養になるからです。
そういう信仰を、阿弥陀如来を本尊とする海岸のお寺に見ることができます。

ここでもよっと脱線して、伯者大山へ行ってきたお話をいたしまし上う。
応永五年の『大山寺縁起』という非常に優れた絵巻がありましたが、残念なことに昭和初年に焼けてしまいました。幸いにして、模写が東京国立博物館に残っています。その中に難破した漁船がほのかな明かりを見て、そちらに進んでいくと大山の火だった、それで助かったという霊験談が語られています。
海で働く人々の信仰を、海岸の寺に結びつけているのです。
最近では、奥の院も火を焚かなくなりました。
志摩の青峰山という朝熊山の前山で少し海岸に近い山ですが、海からかよく見えるし、海もよく見える霊場です。そこも本尊さんが海からあがったという伝承をもっています。
そこには火焚岩という大きな岩があって、そこで火を焚いたこともはっきりしています。ところが、火を焚くと山火事になるそうで、いまでは焚かないと聞きました。さらに高い観音岩というところにピークがあって、最近ではそこに柱を立てて電灯をつけるようになりました。ところが、うっかりつけ忘れたりすると「和尚さん、火が消えていますよ」とお寺へ漁民から電話がかかってくるそうです。それくらいみんな頼りにして、火を大事にしているのです。
したがって、辺路修行者が海から見える聖なる火を焚くということは、十分理由のあることです。 金刀比羅さんの奥の院の常火堂の常夜灯も信仰対象です。そういう海洋信仰の構造の中の重要な部分として奥の院を考えなげればなりません。

円明寺には寺宝とし遍路の納札があります。
弥勒菩薩の種字(シンボル)を書いて、その下に「奉納四国仲遍路同行二人 慶安三年今月今日、京樋口平人家次」と書いてあります。こういう人たちはあらかじめ納札を三十枚なり五十枚なり、あるいは八十八枚作って、それを納めて歩きました。
何月何日にそこに行くかわからないので、今月今日と書いておくと、好都合なのです。
この家次という者が、奥州平泉の中尊寺にも納札を納めているという事実がわかりました。双方に納めた年月が二十二年隔たっています。ときどき遍路に出たのか、巡礼に出てから、二十二年以上回っていたのかわかりませんが、四国遍路と同時に平泉の中尊寺までお参りしていた人が江戸時代の初期にいたことが分かります。この事実には胸を打たれるものがあります。

問題は「仲遍路」です。
弘法大師の場合は太平洋岸を室戸岬から禅師峰寺、竹林寺、青龍寺と回っています。
青龍寺は本当に辺路だという感じのするところです。青龍寺は龍神を拝むことが寺の名前になりました。奥の院の下には龍の窟があり、海岸が龍の浜であり、宇佐の町から青龍寺のある半島まで渡るところが龍ノ渡です。すべて海神を信仰対象にしたお寺であることがわかります。
ここを通って足摺岬に行きました。
岩屋寺は弘法大師の修行の跡として欠くことができません。
岩屋寺を通って石鎚山に登ります。石鎚山に登ったことも、弘法大師は自分で書いています。そうすると、四国のほぼ半分を回ることになります。太平洋岸から瀬戸内海までショートカットして回ったのが、中辺路でぱないかとかもいます。
さらにいえば、青龍寺からいちばん近いのは岩屋寺ですから、岩屋寺までショートカットするとちょうど半分ぐらいです。そういうめぐり方が中辺路ではなかったかとおもいますが、いまのところ、もうひとつ傍証が出てきません。
境内には切支丹灯龍があります。
戦国時代の終わりのころに河野氏が滅亡して、加藤嘉明が入ってきます。
慶長五年白に加藤嘉明が、関ケ原の合戦に出ている間に、河野氏の遺臣が加藤嘉明を追い出そうとして反乱を起こしました。観音堂の十一面観音は、河野氏の遺臣たちのための供養仏だといわれています。
境内には切支丹灯龍があります。これも厳密にいえば切支丹灯龍であるかどうかは不明です。織部灯龍が、しばしば切支丹灯寵だといわれているからです。どうももうひとっマリア観音、切支丹灯龍と断定しにくいのです。純粋のマリア観音なら子どもを抱いた像が彫り込んであります。
コメント