栄福寺-石清水八幡宮の別当寺

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五十七番の札所は、江戸時代までは石清水八幡宮でした。

明治時代の神仏分離以後、石清水八幡宮の別当寺が栄福寺という寺名を名乗ったのです。このように札所のお寺が意外に新しいという場合もあります。お寺の名前の由来は不明です。
 栄福寺は泰山寺からニキロぐらい離れたところにあります。泰山寺が山麓の集落にあるのに対して、栄福寺は八幡さんのある小高い丘の登り口に建っています。
 このように別当寺が札所になった例はかなりたくさんあります。しばしば神仏分離と申しますが、神仏分離以前はどちらかといえば神に重点を置いた信仰です。八幡様の中では宇佐八幡が縁起のうえではいちばん中心ですが、系統がいくつかあります。そのひとつに薩摩と大隅の境にあった大隅八幡がありますけれど、現在は鹿児島県の隼人町に入っています。

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 八幡さんは南のほうの海から島づたいに入ってきた神様です。

 宇佐八幡の場合も、御許山という山の笹の葉の上に幼児になって現れた神様を鍛冶翁という鍛冶屋さんが見つけたという縁起があるので、鉄の文明とともに渡ってきた朝鮮半島の神様だと考えています。高良八幡はKorea(朝鮮)から来た可能性があります。福岡県の久留米の場合は高良八幡、炭鉱地帯の田川に近い八幡は香春八幡と称しております。KOREAという言葉は高麗からきていますから、朝鮮半島から渡ってきた神様だというのが一つの説です。

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  もう一つは、南方から渡ってきた神様だという説です。

いずれにしても海の神様でありまして、海辺でまつられる場合が非常に多いわけです。志摩を歩いていると、海岸にある神社がほとんど八幡さんなので驚かされます。ただし、八幡さんが海の向こうから来たとはいわないで、海上安全の神様ということになっております。応神天皇がお腹の中にいる間に神功皇后が新羅遠征をしたというので、神功皇后あるいは応神が海上の神様になって、海上安全の神様として祭られています。が、海の向こうから来た神様、海洋宗教の神様だと考えられるものが大部分です。
 大分県の国東半島にも、王子八幡宮、奈多八幡宮、片竹八幡肖、伊石八幡宮など、海岸の八幡がいくつもあります。奈多八幡宮は大きな八幡様で宇佐八幡の別宮になっています、か、おそらく灘だとおもいますから、やはり海岸の神様です。砂浜に八幡さんがあって、沖に八限を建てています。したがって、奈多八幡はあきらかに海洋信仰であり、辺路信仰です。
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 栄福寺の石清水八幡さんもやはり海洋信仰です。

 縁起では、行教という坊さんが宇佐八幡にお参りしたところ、八幡さんが衣の袖に移って都に上りたいと託宣した、そこで都に上って、いま石清水八幡がある男山まで行ったら、八幡さんがここに鎮まるといったので、現在も男山にまつっているとされています。
 じつは、宇佐八幡はとても託宣の多い神様で、大仏造営のときの託宣は研究者のあいたで大きな課題になっているぐらいです。大神杜女という巫女が「自分は宇佐八幡である。奈良の大仏を造るのを手伝いたい」といったという話があります。杜女は巫女の称号です。大きな行列をつくって奈良に入る前に薬師寺で休んだのが薬師寺の休岡八幡、手向山に鎮座したのが干向山八幡です。
 ところが、それから三年ほどだつと、鹿島の神官が「この託宣は贋である」と発言します。あわれ杜女は島流しになったという記事が『続日本紀』に出ています。

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このように、宇佐八幡は託宣によって移動する神様です。

 行教が宇佐八幡を男山八幡に移したという話を縁起に語らせているのは、海を移動してきた八幡を表現したいのだと考えられます。正史には出てきませんが、行教が貞観元年(八五九)に宇佐八幡の神託によって山城の男山に八幡を移すときに、内海の海上が荒れてこの地に漂着した。そして山容が男山に似ていたので八幡を山頂にまつったということをいっております。
 この縁起に先立って、弘法大師がすでに海中出現の阿弥陀如来を感得したという話があるので、それと行教の話とが重なったわけです。八幡の御本地は阿弥陀如来ですから、阿弥陀如来を本尊として神宮寺ができました。この丘を勝岡といったので、勝岡八幡宮とも石清水八幡宮とも呼ばれています。阿弥陀如来をまつっていた阿弥陀堂が本地堂で、阿弥陀堂が現在の栄福寺になったということがわかります。

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 口碑によると、八幡は今治の巽(東南)の海岸の衣干というところで、海から上がったとされています。一方は行教という坊さんの固有名詞を出し、一方は名石なき海女が海岸で八幡さんを拾い上げたということになっていますが、口碑に物語性を加えて行教がまつったということになっているのでしょう。
 このように、海から上がった神様、海から上がった仏様、海のかなたから来た神様という伝承があるのは、日本の周囲がすべて海だったということで、山の宗教が成立する前に海洋宗教が存在していたということを示しています。
  
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栄福寺の阿弥陀堂のようなところは、もとは本地堂と呼ばれていました。

山岳寺院には本殿の横に必ず本地堂があります。
八幡さんもそうですが、山岳寺院は神社中心です。神仏分離のときに役人はそれを知らなかったのだろうとかもいます。別当寺は神社に付随したもので、本体はあくまでも神様です。神社の横にある本地堂は小さいものです。お坊さんは本地堂にも、神社にもお参りします。それが別当の仕事でした。お宮さんの横に別当寺を建てて、山伏なり坊さんなりがいたのが本地堂です。そういう関係を栄福寺はよく示しているとおもいます。
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『四国偏礼霊場記』は、さらに次のように記しています。  

山麓に弥陀堂を構ふ。彼地の極楽寺に異ならず。 
牛玉堂、大塔のあと及び三所に華表のあと等歴然たり。
凡城南男山の風景をのづからあり。(中略)
祭礼三ヶの神輿をわたし奉る。四十余町の京浜衣干に至る。
 「彼地」は、石清水八幡です。
「彼地の極楽寺に異ならず」とあるので、京都の石清水八幡宮の別当寺の極楽寺と同じような関係だと述べているのです。そのほか、牛玉堂や大塔がありました。
「華表」は鳥居です。三か所に鳥居があったと書いていますから、大きなお宮さんなのです。つまりこのあたりきっての大きな八幡様らしく、おまつりのときは、八幡様がお上がりになつた海岸に出ていっておまつりをしました。お旅所というのは、だいたいもとの奥の院で神が出現した場所です。お寺の縁起は行教の話を述べていますが、東浜の衣干に上がったという地元の伝承のほうがはるかに真実性があります。

 このように分析して考察していきますと、札所のお寺のできる必然性などもご理解いただげたとおもいますが、そういう点で、栄福寺はわりあいわかりやすいお寺です。
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