泰山寺ー海の神は山の神

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 仏教以前にわれわれの遠い祖先は、何を信仰していたのか?

何に祈りを捧げていたのかは、辺路を考察することによって明らかになってくるのです。五十六番の金林山泰山寺は、正しくそういうところです。
泰山寺は松山から車で三十分ぐらいの道路に面した平凡なお寺で、もとはうしろの金輪山(金林山)に奥の院があったようです。 
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 『四国偏礼霊場記』は高野山の学僧が書いたものですから、なかなかの名文です。 
 此寺大師の開基ときこゆ。隆弊しらず。本尊地蔵菩薩大師の御作なり。
 蔀堂蕭条として、樹木おほし。簸落山華を帯、野風をのづから往来、
 数家の田村斜陽に対す。
 「隆弊しらず」は、この寺の盛衰を知らない、つまり歴史がわからないという意味です。「蔀堂」は茅葺きのお堂のことで、木がたくさん生えた寂しいところだったようです。「簸落」は、生け垣、「山華」は山の花という意味ですが、山茶花ではないかとおもいます。生け垣があったり、茅葺きのお堂があって、田んぼの中には二、三軒の家が西日を浴びて建っている寂しい情饌が描写されています。
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 山号の金林山は奥の院があった山の名前で、ほかのお寺にもよく見られるように、奥の院はかつて山の上あるしは険しい崖の上にあって、麓に納経所があったのでした。納経所には留守居の坊さんがいて、集印帳に判を押したり、遍路をしている人を泊めたりもしたわけです。

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  奥の院は海の神様をまつっています。

ただし、日本神話の中では、このあたりで出てくる神は、むしろ山の神としての性格が非常に強く見られます。天孫朧朧杵尊の子どもの彦火火出見尊の奥さんの豊玉姫、その子どもの鵬顛草葺不合尊の奥さんの玉依姫、ふたりとも海の神の娘です。
 そうして玉依姫と鵬鸚草葺不合尊との間にできた子どもが神武天皇ですから、神武天皇は山の神と海の神から生まれたということになります。ちなみに彦火火出見尊は、海彦・山彦神話の山彦です。山の神と海の神、山の信仰と海の信仰が合体していることは明らかです。
  瓊瓊杵尊は、最初は大山祗神の長女の磐長姫を娶ります。
ところが、醜い娘だったので返してしまって、妹の木花開耶姫を娶ります。
そのとき磐長姫は「自分を娶れば人間の寿命は長かったのに、木花開耶姫をもらったために人間の寿命は短くなった」といったそうです。
その磐長姫(阿奈波大明神)を泰山寺の奥の院でまつっていたということは、海の神でありながら山の神としてまつられているということです。
 
阿奈波大明神の本地は十一面観音ですから、奥の院には十一面観音をまつる龍泉寺と仙住院がありました。仙住院の不動明王は霊験あらたかで、狐憑きが落ちるという信仰があったようです。金輪山は大して高い山ではありません。最初は金輪山に登って行場をめぐって、麓の泰山寺に納経の札を納めて帰るという遍路のしかたをしていたとかもいます。
  
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龍泉寺と仙住院が修験道信仰によって成り立っていたことは、

十一面観音のほかに弘法大師、役行者、醍醐派の修験道を始めた聖宝理源大師、醍醐派でまつられている石鎚大神をまつっていることからわかります。そのほか、海の神様である弁財天をまつっています。さらに、山伏善海の遺言と称する縁起があるるといわれています。
 五十二番の太山寺も山の神様をまつっているので、泰山寺ももとは同じように太山寺といったのだとおもいます。ところが、同じ名前のお寺がいくつもあると煩わしいので、「太」という字を「泰」という字に変えました。
 そうすると、お産が安らかだということで、安産の信仰ができました。安産の地尊をまつって、「女人泰産」から泰山となったようです。したがって、現在の泰山寺の本尊は地蔵菩薩です。山麓の地蔵堂が宿坊と納経所を営んだ結果、独立して霊場になったとかもおれます。
 
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 くどく申しますが、奥の院あるいは辺路時代に戻ってはじめて遍路の意味がわかるのです。遍路の真髄を味わうためには、奥の院に登らなげればなりません。全部でなくても、奥の院をいくつか回ってみると、遍路とはこういうものだということがわかります。
     五来重:四国遍路の寺より