延命寺-宝冠の不動明王

 
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五十四番の延命寺は、五十三番の円明寺と同じ名前だったといわれています。
明治以後に同じ名前では困るというので、延命寺と直したとことがはっきりしています。
 今治から北のほうに半島が延びており、その半島と大三島の間が難所の来島海峡です。延命寺の奥の院は、眼下に来島海峡を望む山の上にあります。現在は山全体が公園になっており、車で楽にあがれますが、頂上の旧跡のあるあたりへは入れません。一歩一歩ふみしめて登ると、辺路の代表的な所だと思われてくる場所です。

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  延命寺の山号を近見山といっているのは、奥の院のある山が近見山だからです。
「くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうっすものかな」
という御詠歌の「鏡の縁」は、弧になってずっと見えている海岸線をさしているのかもしれません。ここからすべての景色が見えるということを、詠んだものかとおもいます。
 薬師如来を拝むお寺であれば、鏡に罪・機れ、病気を移して薬師様に受け取ってもらって治してもらうということで、病気平癒のために鏡を納めることがしばしば行われています。鏡と薬師如来が結びついていることはわかりますが、延命寺の本尊は不動明王です。ただ、もう一つ薬師さんがあるので、あるいはそれかもしれません。
 本堂の左手に薬師如来をまつる含霊堂(位牌堂)があるので、ぞれが御詠歌の鏡だとすれば、非常に古い御詠歌になります。
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 薬師如来を考えるならば、山の上から見ると、海岸が鏡の縁のように見える、海も山も海岸も全部、影が映って見えるという意味かとおもいます。難所を通る場合、月明りのない夜は航海が非常に困難ですから、おそらくこのお寺の常夜灯は、来島海峡を通る船の目印になった重要な灯台ではなかったかとおもねれます。

 そのために、このお寺はもとは円明寺と呼ばれました。

 薬師如来の円と燈火の明を結んで円明寺だったとおもいますが、五十三番の円明寺と混同するので、延命寺と改めたのです。本堂の左手にある含霊堂がまつっている薬師如来示おそらく奥の院の本尊です。これが辺路の寺と薬師の関係です。
 そうすると、含霊堂も山上から下ったわけです。
  
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 このお寺の本尊は宝冠の不動明王です。

 大日如来と合体した宝冠の阿弥陀如来はたまにありますが、宝冠の不動はめったにありません。それが延命寺の本尊になっています。山伏などが「大日大聖不動明王」と称えて行をするのは、大日如来と不動明半が一つになっているわけです。
 したがって、大日如来の宝冠を不動さんがかぶっているというかたちをとっているのだとかもいます。
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ここの伝承を総合すると、近見山の周りに非常にたくさんの堂があったようです。
 周りの堂舎は、もっぱら学僧だもの勉強の場でありました。その証拠の一つは、鎌倉時代に東大寺の高僧凝然が留錫して『八宗綱要』を書いたといわれていることです。「八宗綱姿」は、比常山でも高町山でも、昔の坊さんが勉強するときは、かならず素読をさせられた名著です。仏教の知識を得るのはこれを読むことから始めるのがいちばんいいのですが、漢文ですから、仮名で書いてあるものなら『沙石集』のような簡単なものを読むのがいいとかもいます。
 凝然は、たくさんの著書を残しています。
ここで『八宗綱要』を書いたということは、凝然が勉強をしている坊さんたちに講義した講義録とも考えることができるのです。そういう場所の中に、不動さんを本尊とする不動院がありました。阿弥陀様を本尊にする支院とか弥勒さんを本尊にする支院など、支院がたくさんあって、その一つの不動院の建物が比較的しっかりしていたために、長宗我部氏支配のころ焼かれたときに本尊をここに収容することになったのだとおもいます。
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