国分寺-最勝院の薬師堂が本堂

なぜ四国の霊場を、八十八にしたかというのもよく聞かれる問題です。
華厳宗の場合は十一の倍数を尊んで、六十六、九十九億、七十七天王などといっておりますから、そのあたりからきたものと考えています。
国分寺と一の宮は四国ではいずれも霊場となっています。これは辺路修行が六十六部回国のように、国めぐりの性格をもっていたからです。しかし、天平年間に建立された国分寺が堂塔を残しているのは非常に稀であって、讃岐の場合はそのひとつです。

国分寺の全部が残ったわけではなくて、国分寺の中の一支院や一坊が残って、国分寺という名前を名乗っています。伊予の国分寺の場合も、民家の間に西塔の礎石が残っていることから考えると、国分寺伽藍の周囲にあったいくつかの坊が、国分寺の名を称していたということがわかります。

現在は、最勝院の薬師堂を本堂として国分寺の名を称しています。
このほか、大事堂、金毘羅堂、庫裏、書院があります。お寺の縁起によると、智法律師が住持をしていたときに弘法大師がやってきたとされていますが、弘法大師が来た可能性はあるとおもいます。そういう縁起があるだけで、戦乱によって何回も焼かれたために、そのほかのことはよくわかりません。

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