四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山 

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 六十番横峰寺の奥の院は西日本随一の高峰の石鎚山(1982㍍)ですから、奥の院に参拝しようとすれば石鎚山に登らなげればなりません。石鎚信仰がよく残っている霊場の一つが横峰です。
 横峰寺の縁起には、役行者が星ヶ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た、
蔵王権現の尊像を、行基菩薩が大日如来の胸中に納めて寺を建てた、
と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるので、山頂本尊は吉野蔵王堂と同じ三体の蔵王権現です。修験道には、本尊を複数でまつる性格があって、いまでも過去・現在・未来の三体をまつっています。

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 神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現です。

 もとは山開きのときは、常住まで三体蔵王権現が上がりました。
神仏分離以後は、神社のほうは別に石土大神をまつるようになりましたが、じつは石土大神のほうが古いわげです。石土といったのは、この山が木の生えない岩峰だったからです。「いしづち」の「つ」は「の」という助詞、「ち」は霊のことですから、石の霊が龍る山だという意味です。 
なぜ現在は石鎚神社と呼ばれているかといいますと、
石土という名前は仏教的なことが伝えられているというので、仏教から分離しようとしたからです。仏教的な石鎚信仰が奈良時代の説話を集めた『日本霊異記』の最後の説話と、「六国史」の中の『文徳天皇実録』に出ています。

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   まず『日本霊異記』のほうから見ていくことにいたします。
 伊予国神野郡部内に山あり。名づけて石鎚山と号す。
是れ即ち彼の山に石槌神あるの名也。
其の山高節にして、凡夫登り到ることを得ず。
但、浄行人のみ登り到りて居住す。
昔諾楽宮廿五年天下治しし、勝宝応真聖武太上天皇の御世、
又同宮九年天下治しし、帝姫阿倍天皇(孝謙女帝)の御世、
彼の山に浄行の禅師ありて修行す。其の名を寂仙菩薩となす。其の時世の人、
道俗、彼の浄行を尊む。故に菩薩と美称す。
 ここにみえる「登り到ることを得ず」とは、登れないという意味ではなくて、登らせないという意味です。ただ、浄行人として承認を得た人だけが登りました。この文章によると、すでに弘法大師より前に寂仙菩薩という方がこの山で修行していたことがわかります。 
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帝姫天皇の御世、九年宝字二年歳の戊戌に次れる乍、
寂仙禅師、命終の日に臨んで、録文を留めて弟子に授げて告げて言はく
「我命終より以後、廿八年の間を歴て、国王の子に生まる。名を神野となす。
是を以て当に知るべし。我寂仙なることを」云々といふ。
然るに廿八年を歴で、平安の宮に天下治しし山部天皇(桓武天皇)の御世、
延暦五年歳の丙寅に次れる年、則ち山部天皇皇子(嵯峨天皇)を生む。
其の名を神野親王と為す。
嵯峨天皇の親王時代の名前と石鎚山のある場所の郡名が偶然にも一致したので、生まれ変わりだということになりました。 
 
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次に『文徳天皇実録』を見ることにいたします。

  
故老相伝ふ。伊予国神野郡に、昔高僧、名は灼然なるものあり。
  称して聖人と為す。弟子、名は上仙なるものおり。
  山頂に住止して精進練行すること、灼然より過ぐ。諸鬼等皆順指に随ふ。
  上仙嘗て従容として、親しか所の檀越に語って云く、我もと人間に在り。
  天子と同じき尊にあつて、多く快楽を受く。その時是の一念を作す。
  我れ当来(将来)に生まれて天子と作ることを得んと。
  我れ今出家し、常に禅病を治するに、余習遺るといへども、気分猶残る。
  我れ如し天子とならば、必ず郡名を以て名字と為さんと。
  其の年上仙命終す。是より先、郡下の橘の里に孤独の姥あり。
  橘の躯と号す。家産を傾け尽して上仙に供養す。
  上仙化し去るの後、競に審に問ふを得れば、泣俤横流して云く。
  吾れ和尚と久しく檀越と為る。
  願くば来生にありて倶会一処にして相親近することを得んと。
  俄に躯亦命終せり。其の後幾ばくならずして天皇誕生す。
  乳母の姓神野と有り。
  先朝の制、皇子生まるるごとに、乳母の姓を以て名と為す。
  故に神野を以て天皇の譚と為す。後に郡名を以て天皇の譚と同じ。
  改めて新居(新居浜)と名づく。このとき夫人、橘夫人(檀林皇后)と号す。
  いはゆる天皇の前身は上仙是なり。橘の躯の後身は夫人是なり。
 この文章から、弘法大師より前にすでに石鎚山が霊場として知られていたことがわかります。弘法大師も『三教指帰』という自叙伝の中で、尼さんの話を出したりしていますから、石鎚山で修行した弘法大師はそのことを知っていたとおもいます。
こういう話が伝説になって伝えられていたわけです。

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横峰のいちばんの霊場は星ヶ森です。

 横峰寺は前神寺と別当を争っていました。
どちらかというと、横峰のほうが登りやすかったようです。役行者の話が出る星ヶ森という奥の院を信仰の対象にする場合は星ヶ森を通り、弘法大師を信仰の対象にする場合は石鎚山を通ることになります。
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『四国偏礼霊場記』は、上仙を石仙菩薩という名前にして、石仙菩薩の開基だと述べています。 
当山縁起弥山前神、三所同本を用ゆ。
 此縁起、石鉄権現の事、役の行者の事、井に石仙の
  事を書たり。其文神奇孟浪なり。
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「弥山」は石鎚山の頂上のことです。
御山と書いて「ミセソ」と読んでいたのを、須弥山に合わせて「弥」という字を使うようになったわけです。「孟浪」は、でたらめという意味です。
『四国偏礼霊場記』では、弥山(石鎚山)の縁起も前神寺の縁起も横峰寺の縁起も同じ本を用いている、いろいろでからめなことを書いたのは縁起の筆者の累(嘘を言った罪)であると書いています。
 『四国偏礼霊場記』の筆者は、『日本霊異記』や『文徳天皇実録』にも上仙のことが書いてあるのを知らなかったようです。縁起のほうが、むしろ正しいといわざるをえないようです。

参考文献 五来重:四国遍路の寺
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