香園寺の本堂は二階

香園寺という寺名は、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀山という山号からきたものと考えられます。香園寺となったのは、教王院の「きやうわう」が「けうわう」から「けんをん」となり、「香苑」と変おったわけです。教という宇は、かかしは「けう」と読みました。教王は大日如来です。大日如来を本尊としていることから、教王院という名前が出たのだとおもいます。

「後の世をおもへば詣れ香園寺 とめて止まらぬ白滝の水」という御詠歌の中に「後の世」とありますが、栴檀の林でお釈迦様を火葬にしたら煙が非常にいい香りがした、その栴檀が山号になったというのが「後の世」の意味でし太う。そのあたりを考えないと、四国霊場のお寺の名前の意味はわかりません。
「とめて止まらぬ白滝の水」と詠んだのは、
このお寺の奥の院が白滝不動というお不動さんのあったところだからです。
奥の院の白滝不動から登って、横峰寺に上がります。
途中まではハイキングできますが、先はちょっと道が細くなります。逆に横峰から下ってくると白滝不動に出ます。ここは、奥の院に行ってみないと霊場はわからない、ということが実感できる非常に幽逞なところです。

香園寺はモダンな建物でして、三階建ての二階が本堂で、
二、三百の椅子席、三階が五百名収容可能な宿坊となっております。
しかし、奥の院はじつに幽遼な昔ながらの感じがします。
ここには滝の水の信仰があって、広島や岡山からも信者が来るので、昔の遍路さんは奥の院まで行ったのだとおもいます。滝の水で手を清めると、お参りした実感がしみじみと湧いてきます。

縁起では、弘法大師がここを通りかかったときに栴檀の香りがしたので、大日如来を安置して教王院と号しかとなっています。ただ、この寺がもとあった場所は奥の院ではなくて、奥の院の反対側の海岸です。いまも予讃線の線路を越した北側に大日という地名が残っていて、お寺はそこから移ったという記録があります。
そこにあった大日堂が、白滝不動で修行する人たちの納経所になって、やがて大日如来を本尊とするお寺になり、大日如来だから教王院と称し、現在の香園寺になったわけです。
『四国偏礼霊場記』は、その他の縁起はわからないと書いているので、書いた方はもとはどこに寺があったかということを調べなかったようです。大日という場所は中山川の下流のデルタにあるので、昔は大日あたりまで水が来ていたのかもしれません。

ところが、だんだん北に向かってデルタが延びたために、現在は大日と民家の間はIキロぐらい離れています。全部草原ですから、あとがら延びてきたデルタであることがわかります。したがって、海岸にまつられていた大日如来が辺路信仰者の信仰を得て、白滝不動に合わさっていったのだろうとかもいます。
御詠歌にある「白滝の水」は奥の院の「白滝不動」ですが、ここを奥の院とするのは、石鎚山の別当だった横峰寺との関係を示しています。昔は六十一番香園寺で札を打つということは、白滝不動で滝垢離をとることだったようです。いまでは香園寺から約ニキロ山に入った白滝不動に車で入れるようになりました。
六十四番の石鎚山前神寺の明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』に香園寺の名が見えます。それ以外にお寺の記録を残した文献はありません。古くは苑という字が使われますが、明和六年には園という字が使われています。
中世の海岸の辺路修行は、のちに山岳宗教の修験道に吸収されたかたちとなりました。山岳修行が山の神様を拝かのに対して、辺路修行は海の神様を拝みます。海洋宗教である辺路修行と山岳宗教の修験道が結合したかたちを最もよく示しているのが香園寺だとかもいます。
また香園寺には、弘法大師がこの地に巡錫されたときに、難産に苦しか女を見て加持したところ安産できた。それで「子安大師」と呼ばれて、安産祈願の寺になったという寺伝があります。そうして全国に子安講ができて、非常に賑わっていたことが今日のお寺のすがたに関連しているとみるべきでしょう。
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