吉祥寺 石鎚信仰の担い手の一つだったお寺

六十三番の古祥寺も町の中にあるのであまり霊場らしくありません。
が、もとは本格的な霊場でした。このお寺には奥の院といわれるものが二つあります。その一つの柴井という泉あとのもので、古い奥の院は坂元山にあります。
国道から坂元に入って、三六ハメートルの山を越えたところが石鎚の登山道です。
現在は前神寺から、福王子、檜王子を通って石鎚山に登りますが坂元山から入ると海岸から一直線に南に登れます。そういう意味では、石鎚山信仰の山伏の本拠になったところが坂元山だとかもいます。

『四国偏礼霊場記』は縁起について次のように記しています。
当寺むかしは今の地より東南にあたり、十五町許をさりて山中にあり。
堂塔輪奥として梵風を究む。天正十三年毛利氏当所高尾城を攻るの時、
軍士此寺に濫入し火を放ち、此時本堂一宇相残り、仏具典籍一物を存せず哉撤す。
それより今の地に本尊を移し奉る。本尊毘沙門天坐像、大師の御作なり。
寺を去事一町許上に、柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸溢る。
村民大に利とす。
お寺の本堂の屋根や塔がそびえているのを「輪奥」といって、滅びたお寺を形容するのに使われる言葉です。
「梵風を究む」は、仏教的な風格があるということです。
吉祥寺は小早川隆景が高尾城を攻めたときに、放火によって焼けました。
このとき移された場所は、大師堂のあった場所だとおもいます。
坂元山にあったときの本尊毘沙門天坐像がここに移されました。
「清華」は清らかな泉という意味です。柴井という名泉があったと書いていますが、現在でも柴井の信仰が残っています。
水がないときは柴の青葉を取って手をもむと清められるというので、柴手鉢といっていますが、槙尾山にも弘法大師の柴于鉢があります。

山門の左に大師堂、天神、毘沙門堂、右に庫裡があります。
吉祥寺ですから、もとは毘沙門天ではなくて坂元山にあった山岳寺院の吉祥天を本尊としただろうとおもいます。しかし、現在は毘沙門天を本尊として、脇侍に吉祥天と善賦師童子を配しています。
弘法清水の場所に建てられた大師堂と吉祥天・毘沙門天をまつった吉祥寺が合体して、現在地にお寺の伽藍を営んだものと考えられます。
坂元山が奥の院ですから、現在は遺跡等は何もなくて、みかん山になっています。
このあたりは、瀬戸内海の島々が一望のもとに見えて、海を信仰の対象とする辺路信仰のお寺があったことを再認識できる場所です。
ところで国道に洽って坂元という集落がありますが、そこではなくて、南にニキロほど山に登った長谷という集落のみかん山になっているところが坂元山です。海岸からほとんど一直線に登りまして、標高は三六ハメートルです。
この山を越えると黒瀬峠に出て、前神寺・石鎚神社から石鎚山に登る登山道と交わります。ですから吉祥寺は、石鎚系の修験の寺であったといって差しつかえないとおもいます。

山内には二十一坊もあったようですが、現在の旧址はそれほど広くありません。
寺伝では小早川隆景に焼かれてのちの江戸時代の万治二年に、末寺檜本寺と合併したと伝えています。檜木寺は、石鎚山登山道の檜王子を管理する寺であったとおもわれます。

ここには成就石があります。
成就石は高さ1メートルぐらい、真ん中に10センチほどの穴があいていまして、目をつぶって金剛杖を突いて歩いていって、うまく穴を通れば願いがかなうという庶民信仰です。
目隠しをした人が歩いている絵が「一遍聖絵」に出てきますから、目をつぶって歩いて、石に抱きつくことができると願いがかなうという信仰があったようです。
吉祥寺にも成就石があることから、このような信仰が遍路の寺にもあったことがわかります。

吉祥寺の本尊が毘沙門天ですから、毘沙門さんのお話をいたします
室町時代になると、鞍馬寺の毘沙門天が福の神になり、その信仰を受けていたるところで毘沙門天が福の神になったようです。さらに、毘沙門天と吉祥天、あるいは毘沙門天と弁財天が夫婦だといわれるようになって、七福神の中に毘沙門天と弁財天が加わったという過程が考えられます。
じつは七福神は日本の神様二体・インドの神様二体・中国の神様二体ですから、六福神です。日本は恵比寿と大黒天、インドは毘沙門天と弁財天、中国は布袋と福禄寿です。福禄寿は寿老人とも呼ばれたので、福禄寿と寿老人ぱ一体の神様です。
平等に二体ずつ取ったのに、福禄寿と寿老人が別になって七福神になってしまいました。その中に毘沙門天と弁財天が入るのは、鞍馬寺の毘沙門天の福神信仰からきたものと考えられます。
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