庚申待とその建塔の目的は? 

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庚申待ちには、祖霊供養とおなじで先祖の加護によって厄難をのがれ、豊作を願うのが目的がありました。これが仏教化すると「七難即滅、七福即生」というようになり、七色菓子が必須の供物となります。また六道の苦をのがれるという信仰も生まれてきたことが『庚申尊縁起』には見えます。
 山伏達の指導で、仏教唱導に利用されたことがうかがえます
この縁起には庚申の十徳が次のように挙げられています
一に諸病悉除、
二に女子悪子を生まず、
三に寿命長遠、
四に諸人愛敬、
五に福徳円満、
六に三毒消滅、
七に火難水難を除き、
八に盗人悉除、
九に怨敵退散、
十に臨終正念
このような庚申の利益をうけるためには、精進潔斎をしなければならないと説かれます。
扨テ庚申祭ノ前夜ヨリ肉食五辛ヲ断チ、
精進潔白ニシ重不浄ノ行ヲナサズ、
とあり、とくに「不浄ノ行」という男女同会を禁ずるタブーがきびしかったようです。近世の『女庭訓大倭嚢』には、 
庚申の日 射緋いいの日 男女さいあいを致し候へば二天ながら大毒にて、年をよらせ命短くなし。病者になり候。
若し其夜子種定り候へば、その子一生巾開病者に候か、盗人か大悪人かに候。
むかしより例ちがひ申さぬ禍にて候まま、能そ御つつしみあるべく候。
とあり、庚申の夜のタブーは有名です。しかしこのタブーは興味本位にかたられるだけです。なぜタブーなのかという考察がなされていません。別の視点から見ていくことにしましょう。
先祖祭の代表的な祭として新嘗祭があります。
祭りの前一ヵ月間の致斎(ちさい)は厳重でした。この新嘗の先祖祭は、民間では仏教化して「大師講」とよばれ、その夜は祖霊の来訪を待って徹夜し、大師風呂という風呂を立てて潔斎しました。また、新嘗の夜には男女が別々の家に寝たことをしめす『万葉集』(巻十四)の歌があります。  
 誰そ 此の屋の戸押そぶる 擁獣に
         我が背を遣りて 斎ふこの戸を
という歌は、新嘗の祖霊祭には夫を他所へやって、妻一人が忌み箭って祖霊をまつったことを示しています。しかし、奈良時代にはこのタブーを無視して、女一人の家に入ろうとする不埒な輩がいたことを、この歌は伝えています。

「庚申は日木固有の祖霊祭(先祖供養)の一つの形態」

という視点からすれば、庚申の夜のタブーは、この祖先祭の名残りと考えられます。

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庶民の庚申真言の唱え方について

 この唱え言は、山伏の方で

オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ

いう真言に変えます。これは「マイタリヤ」すなわち弥勒菩薩(マイタレーヤ)と庚申を同一視する信仰をあらわします。これに添えて、諸行無常の四句偶を唱えたのです。
だから、庚申信仰を通して諸行無常の仏教の根本教理を自覚させ、合わせて先祖祖雲の供養をしたことがわかります。ここにも庶民教化に山伏が影響力を持っていたことが分かります。 
三猿の起源は?
 それでは貴族たちの庚申の礼拝対象は何だったのでしょうか。
貴族達はこれは三尺虫を礼拝するのでなくて、これを追い出そうとする祭でした。
庚申信仰 三戸虫
三尸虫

「三尸虫(彭侯子、彭常子、命児子)よ、真暗なところへ向かって、我が身を離れ去れ」

というのですから、守庚申とは眠らずに夜明しをして、三尸虫が身を抜け出さないようにするという教説ともちがうようです。
 ここでも別の視点から見てみましょう。
「三尸虫を離れ去らしむ」という志向が庚申塔の三猿になっていると考えられないでしょうか。猿は庚申の申(さる)とも関係があるけれども、これを三匹とするのは三尸虫を「去る」ことを寓したものではないでしょうか。だから三猿は、すべて否定的にできており、災禍を見ず、災禍を言わず、災禍を聞かずという意味なのだと推察しています。

庚申の鶏は?

 庚申塔の鶏は夜を徹しての行事であるので、夜明けを告げる鶏をあらわします。、同時に鶏の鳴声ですべての禍が去ることもあらわしています。よく昔話にあるように、鬼は鶏が鴉けば夜が明けないうちに立ち去るというのも、この意味です。この鬼は常世、または幽冥界(黄泉)へ去るので鶏は「常世(常夜)の長鳴鳥」といわれます。

庚申の本尊は?

 庶民の側の庚申には礼拝対象があります。
庚申講には庚申の本尊というものがあって、神式ならば「庚申」または「猿田彦大神」という文字の掛軸です、仏教式ならば「青面金剛」という仏像の掛軸です
いずれにせよ庶民の庚申講には、神なり仏なりが存在して、これをまつり、供養することによって禍を去り豊作を得ようとしたことが、貴族の守庚申とまったくちがう点です。 
庚申の神を「猿田彦大神」とするのは、申と猿の相通からきた
ことはもちろんのことです。が、そればかりではなく天孫降臨のとき、その道の露払いをしたとあるように、禍をはらう力がこの神にあるとされたからでしょう。したがって、この神は「道の神」として道祖神ともなります。
 しかしそれよりも重要なのは、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることです。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願が強くなります。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を、庚申講の本尊として拝んだのです。貴族の信じた三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰でした。
 そこにいるのは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神でした。

 日本人の固有信仰では「田の神」は山から降りてくるものであって、田圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられていました。だから冬は「山の神」となり、春から秋にかけては「田の神」として耕作を護るとされます。これが「山の神・田の神交代説」という考え方です。
 猿は「山の神」の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は「山の神」と「田の神」の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいとかんがえられたのでしょう。

 庚申信仰の仏教化も猿田彦神の神道化も職業的僧侶や神官のかんがえたことです。
どちらの
場合でも民衆は、庚申は豊作の神と信じていました。その豊作も庚申講で供養する先祖のおかげと信じていました。そのため庚申講には念仏がつきものでした。だから庚申塔には「申待供養」とか「庚申供養」という供養の文字を入れることが多いのでしょう。祭の本尊は猿田彦でも青面金剛でも、これを通して先祖をまつり、そのおかげて 豊作を得ようという信仰構造が、庶民信仰というものです。

庚申信仰の拡大の上で山伏の果たした役割は?

 この庶民の信仰をよく理解して、これに沿うように庚申信仰をひろめ、民間の庚申講を結成させていったのが修験道の山伏です。かれらは神仏も区別せずに礼拝したので、両部神道に近付きやすかったようです。ことに真言密教系の山伏は伊勢系の両部神道を根底とした習合思想をもっていたために、伊勢神道の豊受大神即金剛神の理論に『陀羅尼集経』の「大青面金剛呪法」をとりいれて、日本独自の庚申本尊六腎青面金剛神像をつくりあげていったのではないでしょうか。

庚申信仰=山伏形成説

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