満濃池は修築と決壊を繰り返して現在に至っています。
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空海が築池別当を勤めて改修した30年後には、満濃池は再び決壊します。そして、改修されますが平安末期に決壊すると、以後は江戸時代初期に修復されるまで450年間、満濃池は姿を消していました。中世の鎌倉・室町時代は武士集団の分立、抗争が続き、復旧工事を行う労働力の組織化を行えるシステムが働かなくなったのが原因です。そのため旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができていたようです。これを江戸時代末期の讃岐国名勝図会では「池内村(いけのうち)」と記しています。
 その間のことを資料的に確認してみようと思います。
 
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「萬之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となったもの

 嘉元四年(1305)六月十二日 昭慶門院御領目録 竹内文平旧蔵文書『香川県史8資料編 古代・中世史料』香川県 昭和61年 
 一 讃岐国(中略) 万之池 泰(秦)久勝   
   亀山上皇が、皇女の喜子内親王に譲った「昭慶門院御領目録」の中の讃岐の条には、飯田郷をはじめ29の郷と保の名が記されています。そこには、良野郷や良野新名、万之池等の郷名が見えます。そして、良之郷の下には行種、万之池の下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名が記されています。ちなみに秦久勝は、讃岐国の分国主亀山上皇の随身です。

「萬之池」は、旧満濃池跡が再開発されて荘園となったもので、後の「池内村」の呼称であったと考えられます。
良之郷と良野新名、萬之池はその地を領有していた開発領主が、国司の苛酷な収奪から逃れるために土地を亀山上皇に寄進し、その後領主である泰久勝が、上皇の荘園の荘司として現地を支配していたようです。つまり、満濃池決壊後に底地の再開発が行われ、14世紀初頭には荘園化され上皇に寄進されていたわけです。

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その後、萬濃池は上賀茂神社の荘園になります。

京都の上賀茂神社の「賀茂別雷神社文書」(第一史料纂集古文書編 続群書類従完成会(昭和63年)には、その後の「萬濃池」のことがうかがえる3つの資料が載せられています。そのひとつは、受請者「瀧宮新三郎」が荘園主の京都の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書で、次のように記されています。

長禄二年(1457)五月三日
 讃岐国萬濃池公用銭送状送り参らす御料足事 合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬濃池内御公用銭、送り参らすところくだんのごとし。                    
                    瀧宮新三郎      長禄二年五月三日            賓明(花押)
      賀茂御社

内容は「萬濃池」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています。とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が行われていました。
 この文書からは荘園主が亀山上皇から上賀茂神社に変わり、請負者も泰久勝から瀧宮新三郎に変わっていることが分かります。瀧宮新三郎という姓から、請負人は現在の滝宮を拠点とする綾氏系統の武士団の統領かもしれません。続いて60年後には、瀧宮新三郎に代わって、栗野孫三郎が萬濃池代官職請文を提出しています。

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次の史料は、永正十七年(1520)四月十六日 栗野景昌讃岐国萬濃池代官職請文です。
賀茂御社領讃岐の国萬濃池の内面競望申すにつき、御補任を成し下され候。畏み存じ候。しかれば、御公用の事は、毎年四月中旬に六貫九百文、はたまた、十一月中に五貫八百文分、京着定め、社納申すべく候。
万一無沙汰申し候はば、かの代官職の儀御改替あるべく候。
その時一言の子細申すべからず候。よって後日のため請文の状くだんのごとし
                    栗野孫三郎
 永正十七年四月十六日         景昌(花押)
  請負人名が栗野孫三郎に代わって上賀茂神社に提出した文書で
「毎年四月中旬に六貫九百文、十一月中に五貫八百文分を手形で京の上賀茂神社に送ること、もし契約を守らないときには代官職を罷免させられても文句をいうことはありません」
と記されています。
 ここで目にとまるのは、請負料が60年間に比べて年間6貫600文から12貫700文の約2倍に引き上げられていることです。これは旧萬濃池の荒地開発が進み、領地の価値が上がったことが背景にあるのかもしれません。
上記の文書と同日発行でセットになっているのが、次の文書です。
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永正十七年四月十六日 讃岐国萬濃池公用銭請文
請乞い申す、賀茂御社領讃岐国萬濃池の内御公用の事、栗野孫三郎御代官職として、毎年四月中旬に六貫九百文、はたまた、十一月中に五貫八百文申し請けらるところ、万一無沙汰の儀これあらば、私として、御神事前に社納申すべく候。
なおもって難渋候はば、堅く御催促に預かるべく候。
よって後日のため請文の状くだんのごとし
                はたすハふ守
  永正十七年四月十六日     安家(花押)
  これは「はたすハふ守」の上賀茂神社への「保証書」です。
「もし、請負人の栗野孫三郎が契約を守らないようなことがあれば、督促し年貢を遅らせます。」と請負料納入の保証をしています。このように鎌倉から室町に掛けて、萬濃池跡地は開発され田地化が進み、讃岐の請負人が支配する荘園となっていたことが分かります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。池内村でなくではなく「萬乃池」です。 「池内村」と表記されているのは、下の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵・江戸時代初期)が初めてのようです。
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「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵・江戸時代初期)
上図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。この絵図では、村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。江戸時代初期に作成されたこの絵図には、中世の荘園から発展してきた旧満濃池内の村落が「池内村」と呼ばれていたことを証明する根本史料になります。
この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、中世の池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現し、近世が始まります。


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参考史料 田中健二(香川大学名誉教授)「江戸時代の開発」の講演資料による