丸亀平野のため池はいつできたの?

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 丸亀平野を空から見るとため池が多いのに、改めて驚かされます。
この一つ一つのため池にも歴史があり、先人達の血と汗で維持されてきたようです。

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香川清美の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)から学んだことを最初にまとめておきます。
香川氏は、昭和二十七年七月に三回にわたって発生した洪水範囲を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにしました。洪水範囲と弥生遺跡の立地、ため池の配置を地形図に落としていく中で、次のような事に気付きます。
①丸亀平野の弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池が洪水路線に沿って連なっている。それは「鈴成りひょうたん」のように鈴成りになっており、水が引き氾濫が終わって最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のものである。
⑤「鈴成りひょうたん」状に連なったため池は、稲作が始まった時には取水のための「しがらみ堰」だった。それが後の時代にため池へと「成長」した。
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 山麓ため池の発生過程は?

      亀田隆之は、古代の用水開発の発展過程を、四段階にわけて次のように述べています。 
① 第一段階は、弥生時代の水田耕作が微高地を拠点にして、その背後の低湿地で始められた
 ② 第二段階 低湿地は、河川氾濫で水害を受けやすいため山麓部に次第に移住していく
 ③ 第三段階 谷あいでのため池築造が始まる。その時期は、古墳が造られる時期と同じ時期で四世紀ごろである。
④ 第四段階 五世紀になると大きな前方後円墳に象徴されるように労働力の組織化が可能になり、平野部において治水灌漑工事が大規模に行われるようになる。
①従来の(山麓台地)→(平野への移動)説を否定して
②平野の微高地→ 山麓台地 → 平野の制圧説提唱した。
 こうみてくると山麓ため池の発生は、第三段階の四世紀ごろになります。

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丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係で注目されるのは?

    丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯ですが、この一帯は平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されています。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられています。

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    同時にまた磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地です

 この一帯は、山麓台地での耕地開発とため池水利の発生があったと考えられる痕跡があります。『讃岐のため池』第一編は、この地域の山麓ため池を分類して、「谷頭小ため池」「谷側ため池」「堰き止め池」と名づけ、次のように定義しています。
①谷頭小ため池とは、山麓の小さな谷間を堰き止めて作られたた流域面積の狭い小ため池である。
②谷側ため池は、谷川本流を直接堰き止めないで、谷川本流からはずれた谷側の山ひだを堰き止め、谷川に取入堰を設けて水を導き貯水をしているため池である。この種のため池は山麓に限らず平地にも見受けられる。この型のため池は、洪水時の決壊を避けるための知恵を働かせて作られたものである。
③堰き止め池は、谷川本流を直接正面から堰き止めたため池で、上流域からの流出水を全部受け入れる構造である。現在では、山麓部でこれが発達して重ねため池になっている事例が数多く見受けられる。 
  築造技術の難易度では、谷頭小ため池が難易度が低く、これを原型に発達したものと考えられます。いずれにしてもこうした谷頭小ため池・谷側ため池は、山麓丘陵地帯でのため池水利の原初形態を伝えるものです。現在讃岐の各地には、山麓のひだを利用して無数の小ため池がはりついています。これらのいくつかは、弥生の末期から古墳時代前期に、既にその原形を形づくられていたのではないかと思われます。そんなことを考えながらため池を眺めていると、池が何かを語りかけて来るかのようにも思えてきます。

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   ため池の中に出水(湧水)があるものも多いのです。

 湧水を包み込むような形で堰堤を築くことは、湧水のうまい利用法です。それは古代人が考えたことでしょう。出水の湧出水を貯める小さなため池は、古代にまで遡ることが考えられます。そしてこのタイプのため池は、山麓だけでなく、丸亀平野の出水周辺でも造られたとと推察できます。そんな池は、丸亀平野には数多くありそうです。
    
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