仁尾浦 賀茂神社の「神人」とは何者なの?
仁尾沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。 荘園になると、荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが当時の習わしでした。こうして、応徳元年(1084)に山城国賀茂大明神(現在の上賀茂神社)の分霊が蔦島に勧進されます。これが現在の大蔦島の元宮(沖津の宮)です。今でも賀茂神社の秋祭りの際には、祭礼を取り仕切る年寄・頭人がここに参拝しています。
そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。
京都賀茂社の神人(じにん)として活躍する仁尾浦の住人
やがて仁尾浦の住人が京都賀茂社の神人(じにん)として社役を奉仕するようになります。神人とはいったいどんな人たちなのでしょうか。神人は、特別の権威や「特権」を持ち、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
このように仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
赤米の積み出し港 仁尾浦
中世の仁尾は賀茂神社に奉仕する神人と称する人々によって「浦」が形成されます。浦とは、海に従事する人々の海辺集落で、漁業・海運の拠点だけでなく、農林・商工業製品移出入の地でもありました。
周辺からいろいろなな物資が集められ積み出されました。その中で注目するのが赤米です。
赤米とは鎌倉時代から室町時代にかけて大陸からもたらされた米で、低湿地や荒野でも栽培が可能でした。そのため多くの地域で栽培されるようになります。特に塩害のあった三野地域では、国内で最も早くから栽培されていたようです。讃岐の港から赤米が積み出されていたことが資料からも分かりますが、仁尾からの積出量が最も多く、西讃地方の特産物であったようです。
公的な警備活動にも従事した仁尾浦の神人たち
室町時代に讃岐の守護であった細川氏は、応永二七年(1420)朝鮮回礼使宋希憬の帰国の際に、その護送のために兵船を出すよう仁尾浦に指示を出しています。
また永享六年(1434)遣明船が帰国した時に、燧灘を航行する船の警護のため仁尾浦から警護船を徴発しています。このように、仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、時には兵船御用を努めたり警護船を出すなど公的な任務にも従事していました。賀茂神社は信仰の対象だけでなく、神人を統括する役割を果たす存在でもありました。
覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』には、永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が見えます。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」とあり、
当時の仁尾浦に、五〇〇~六〇〇の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。
「千石船見たけりや仁尾に行け」
仁尾は、後ろは三方を山に囲まれ、前は海で、大蔦島、小蔦島、磯菜島(天神山)の三島が天然の暴風波堤として、港を守ってくれる良港でした。15世紀には細川氏の軍事基地ともなり、また賀茂神社に綿座がおかれたことから、同神社を中心に各地から商人が集まって市が開かれました。そこでは、あらゆる農産物・海産物等が売買され繁栄しました。 近世になって、これらの産物は、天然の良港の仁尾より仁尾商人の手によって瀬戸内海沿岸や讃岐各地に販売され、仁尾の繁栄につながっていきます。たとえば、塩を必要とした土佐北部山分の地方で生産されていた土佐茶(碁石茶が大半)と、瀬戸内内地方特産の塩との交換が仁尾商人によって行われ、土佐茶の売買が発展していきます。
江戸時代の港町仁尾は、醸造業・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿總糸所・両替商などの大店が軒を連ね、近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んに人々が往来しました。港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞘・尾道などにまで物資を集散する大型船が出入りして「千石船見たけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれました。
近世期の仁尾港の状況は、どうだったのでしょうか。
それを考える上で重要な地名は、賀茂神社の北側に残る「大浜」です。この神社付近は磯菜島の島影になり、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところと言われます。仁尾浦の港湾の中心となっていたのは、この神社周辺のではないでしょうか。 弘化四年刊行の『金毘羅参詣名所図絵』所収の「仁保ノ湊」に、まだ防波堤は描かれていませんが、仁尾町宿入に残存している「金毘羅燈寵」は描かれています。この燈龍は、湊への出入りで灯台的役割を果たしていた物で、この北側には丸亀藩船番所がありました。
そのため賀茂神社の西側に近世期の港があったと考えられます。
土佐藩参勤交代の瀬戸内海側の出発港でもあった 仁尾港
仁尾港が、西讃岐を代表する港町であったことは、流通面だけではありません。 土佐藩主の参勤交代は、江戸中期以後は「北山越え」がのメインルートとなります。これは、現在の高速道路の笹ヶ峰から伊予新宮を経るルートで、仁尾港から瀬戸内海へスタートすることが多くなります。
仁尾を出航した例として、八代豊数の時のルートを紹介すると。
豊数は宝暦11年(1762)1月5日に高知城を出発し、4月6日に江戸に到着しています。その間、3月10日朝、川之江を駕寵で出発し、姫浜で休息、夜8時過ぎに仁尾に到着し、本陣の塩田長右衛門宅に入りました。
翌日朝5時、仁尾から乗船し9時前に出港、箱之三崎まで漕ぎ出し、そこから帆走して暮れ頃に与島、8時に対岸の出崎(岡山県玉野市)に到着しています。翌日は室津(兵庫県たつの市御津町)に上陸し、その後は山陽道を陸路で江戸に向かっています。
この時には、土佐藩丸亀京極家の御船住吉丸など五艘を借用しています。ここからも、仁尾湊の重要性が分かります。また操船方法として、箱浦の三崎まで漕ぎ出し、潮流などを考慮して四国を離れています。庄内八浦の一つである箱浦及び三崎が操船上の重要ポイントであったことを推察させます。これは、幕末期に丸亀藩によって海防のため三崎砲台が設置されることと相通じるのかもしれません。
参考史料 三豊市教育委員会 近世の三豊
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