中世の道隆寺は、どんな場所にあったのか。

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中世の道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港がありました。

道隆寺が管理した堀江津について
 中世の地形復元地図を見ると金倉川河口の西側海浜部には、現在の中津万象園から砂州が西側に伸びていたことが分かります。そして現在の桃陵公園の下からは、東に砂堆が伸びています。この砂堆と砂州の間が海に開いている所が堀江津になります。その背後には潟(ラグーン)が広がり、入江を形成しています。この入江の奥に位置にあったのが道隆寺であり、船着場として好適な場所でした。道隆寺は堀江津に近く、港をおさえる位置にあり、塩飽の島々と活発な交流を行っていました。堀江津の港湾管理センターの役割を道隆寺は果たしていたと研究者は考えているようです。
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  道隆寺の海への進出とは、どんなものだったのでしょうか

中世の道隆寺明王院は、周辺寺社の指導管理センターでもあったようです。この寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

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道隆寺明王院の周辺寺社へ関与一覧表
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると白方方面から庄内半島にかけて海浜部、さらに塩飽の島々へと広く活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた


ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。  
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道隆寺大門

 道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。

永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋(高見島)善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘(本島)尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。

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道隆寺本堂
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的なそんざいでした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。
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道隆寺本堂内
金蔵寺と海との関係は?
金蔵寺は天台宗寺門派の寺院で、円珍の誕生址と伝える古刹です。
金倉川の西側、道隆寺よりもやや上流に位置し善通寺にもほど近い場所にあります。戦国前期頃と推定される次の文書が金蔵寺と港湾都市との関わりを考えるヒントになります。  
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
これによれば金蔵寺が大嵐で大破した際、宇多津・多度津・堀江に修造費の負担を依頼しています。寄付金額がそのまま、この時代の3つの港湾都市の経済力を物語っているのかもしれません。ここで不思議に思うのは、
どうして、内陸部にある金蔵寺が3つの港湾都市に援助を求めたのでしょうか?
なんらかのつながりがあって、金蔵寺の寄付依頼に応える条件が満たされていたからでしょうが、それは今の私には見えてきません。
 道隆寺には、応永六年(1399)に宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。宇多津の有力者の信仰を集める何かが金蔵寺にはあったのでしょう。
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道隆寺伽藍

 道隆寺は鎌倉末期に復興し寺院体制を整備していきます。
これには紀伊国根来ゆかりの円信の役割が大きかったようです。道隆寺は海に開かれた寺院という特性を生かして、根来とのつながりを保持していきます。
 同時に、港をおさえる位置にあった道隆寺は海運を通じて宗教活動を展開し、塩飽諸島の寺院を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。海に開かれた寺院に成長していったのです。そこには真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺には及んでいます。その流れがこの寺にも影響をあたえていたと私は思っています。

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道隆寺伽藍

 道隆寺は談義所でもあり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。付近の金蔵寺も談義所であり、この地域は善通寺への参詣者をはじめ、談義所を訪れる学僧や聖などさまざまな人びとが往来します。ある意味、大宗教ゾーンを形成していたのです。
 今の道隆寺の境内には、海とのつながりを連想させる物はなにもありません。時代の流れと共に、海は遠く遙かに去ってしまいました。しかし、この境内は海とのつながりによって形成されてきた歴史を持ちます。
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参考史料 上野進 海に開かれた中世寺院 
       香川県歴史博物館 調査研究報告三巻
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