家船漁民の金比羅信仰 家船と一本釣り漁民の参拝
金毘羅山の秋の大祭は毎年10月10日に開かれるので「おとうかさん」と、呼ばれて親しまれてきました。今から200年ほど前に表された『金毘羅山名所図絵』には春と秋(大祭)への漁民の参拝が次のように記されています。
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる
意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る
塩飽は金毘羅沖合いの塩飽諸島をさし、近世には西廻り航路、東廻り航路などで船主や船乗りとして活躍し、金比羅信仰を広める原動力となりました。しかし、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民は家船の人びとが定住する江戸時代末までいませんでした。ここで作者が「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは当時、塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船の人びとをさします。
彼らが「船をすみかとし」て漁を行い、丸亀城下で行商を行っていたのです。
江戸時代の瀬戸内漁民にとって、商品価値の高い魚はタイ
扨毎年三月、金山の桜鯛を初漁すれは、船ことにこれを金毘羅山へ初穂とて献す。其日は漁師も大勢打つとひて御山にのぼり、神前に參りて後、いつこにもあれ卸神領の内の上を掘りつつみて帰る。これを御贅の鯛といふ。
意訳すると
毎年3月になりあ、初物の桜鯛があがると船毎に金毘羅さんへの初穂として献上した。その日は漁師達が大勢揃ってお山に参拝し、神前にお参りした後に、神域の山で掘った土を包んで持ち帰った。これを御贅の鯛と呼んだ
備後の沼名前神社の祇園祭りが、鞆沖での鯛網漁の終了直後にあたっていたのも偶然ではありません。塩飽諸島周辺にも桜が咲くころ、タイが紀伊水道を通って産卵に集まりました。第二次世界大戦前までタイの一本釣り漁師は、ウオジマイキといって瀬戸内各地から塩飽諸島周辺に集まってきました。彼らが金毘羅さんに奉納したの桜鯛は「御贅の鯛」と呼ばれました。
芸予からやってきた漁民は船住まいしながらタイを釣り、海上で仲買船にタイを売ります。そして次第に、近くの民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。
10月10日の大祭は、男女の出会いの場
又十月十日には、此多くの漁船の男女ことぐく陸にのほり、金毘羅大権現へ参詣をし、さて夜に入ってかえるとて、つねに相おもふ男女たかひに相ひきて、丸亀の城下福嶋と云る所の小路軒の下なとに新枕し、夫婦と成て後おのれおのれか船につれてかえる。
意訳すると
10月10日の大祭の日には、多くの漁船の男女が金毘羅大権現にお参りした。夜になって帰る時には、それぞれ惹かれあった男女が一緒になって、丸亀城下の福島町の旅籠で一夜を過ごし、夫婦となって、自分たちの船に帰っていく。
金毘羅大権現の秋の大祭は「漁船の男女がことごとく陸に上がり」金毘羅山へおまいりしたとあります。金毘羅さんは、彼らの「婚活パーティー」の場でもあったようです。夜になって帰るときには、それぞれパートナーを見つけて丸亀城下の福島の小宿屋で「新枕し、夫婦」となり、翌朝にはそれぞれの船に帰りました。そして鯛の漁期が終わると、故郷に連れて帰り新婦として紹介したのです。
金毘羅山は基盤をもたない家船に乗る若い男女の出会いの場でもありました。
瀬戸内地域では農民と漁民の婚姻は難しく、家船漁民は社会的基盤が弱かったのです。その中で金毘羅さんの大祭は家船漁民の社会生活を支え、交流をはかる機会だったのです。金比羅信仰にはこんな側面もあったようです。
瀬戸内地域では農民と漁民の婚姻は難しく、家船漁民は社会的基盤が弱かったのです。その中で金毘羅さんの大祭は家船漁民の社会生活を支え、交流をはかる機会だったのです。金比羅信仰にはこんな側面もあったようです。
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