香西漁民の讃留霊王信仰の高まりの背景は?

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飯山町下法勲寺には、讃留霊王神社があります。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会

   飯野山と讃留霊王墓・法勲寺跡(讃岐国名勝図会 幕末)
讃留霊王の古墳とされる後円部の上が玉垣で囲われ聖域となっています。そこに近世以後に新しく神社が建てられます。その背景には、讃岐における讃留霊王伝説の広がりがあります。

讃留霊王神社 讃岐国名勝図会
讃留霊王神社拡大図 「讃王明神」とあり、背後に陵墓がある

讃岐のローカルストーリであった讃留霊王説話を本居宣長が「古事記伝」にとりあげると「讃留霊王=讃岐の国造の始祖=綾氏の祖先」とする認識が全国的に広がり、認知度もアップします。これも、綾氏を祖先とする人々の讃留霊王信仰の拡大につながりました。

 なぜ讃留霊王神社が香西漁民の信仰を集めたのでしょうか?
 讃留霊王は、悪魚退治に従った漁民に瀬戸内海での漁業の自由をゆるした

とも言われはじめ、漁民の信仰も集めるようになります。この神社の境内には明治に建立された際の王垣が立っています。
その中に高松の香西港の漁民「香西久保利作、漁方中」の名が見えます。また、境内に建つ旅所由緒之碑には、次のように記されています。
神社氏子は、明治初期まで香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上を恒例としていたと伝えり。」
意訳変換しておくと
(当社の)氏子は、明治初期までは香西浦や直島にもいた。その方々の崇敬は厚く、祭礼行事に参加するとと共に、春の初鯛の献上を恒例としていたと伝わる」

香西浦や直島の漁民が祭事に係わり、春の初鯛献上を毎年行っていたとと刻まれています。香西漁民が讃留霊王説話をどのように受け止め、歴史意識を形作っていったのでしょうか? 探ってみることにします。
香西漁港の三和神社 「瀬居島漁場碑」を読む

香西湊の三和神社と讃留霊王顕彰碑
三和神社(高松市香西)と「瀬居島漁場碑」 
高松市の西にある香西漁港には漁民達から信仰を集めた三和神社が鎮座しています。もとは海神社と呼ばれていたことからも海に関係した神社であることが分かります。この神社の境内に「瀬居島漁場碑」が立っています。120年ほど前の明治32年(1899)に立てられた碑です。読んでみましょう。
「相伝う。景行の朝、讃の海に巨魚有り。漁民之を畏れ敢えて出漁せず。天皇、皇孫武殼王を遣わす之を除く。王、網を結び魚を掩い殺し、遺類莫し。百姓慶頼す。因って其の地を称して網の浦と曰うと云う。嗚呼往昔は皇威悪魚を駆りて民の害を除き、今は官裁漁域を定めて争訟をおさむ
意訳変換しておくと
 景行天王の時代(4世紀)、讃岐の海に巨大な悪魚が現れた。そのため漁民はこれお怖れて出漁出来なかった。景行天皇は、皇孫武殼王(神櫛王=讃留霊王)に命じて、討伐することを命じた。そこで王は、網を結んで悪魚を捕獲し、憂いをなくした。これを見て、百姓は大喜びした。そのためその地を「網の浦」と呼ぶようになった。このように香西は、往昔は皇威を駆りて悪魚を駆逐し、今は国家の裁定で漁域を保証されて、漁業権を巡る争訟に勝利した。

武殼王は景行の孫、日本武尊の子として記紀にも出てきます。
しかし、悪魚退治は讃岐で付け加えられた讃岐独特の伝説です。悪魚退治ののち讃岐に留まったので讃留霊王と呼んだと讃岐では言い伝えています。
 この碑の内容は、香西漁民の先祖の活躍には比重は置かれていないように感じます。それよりも、先祖が悪魚退治をおこなった讃留霊王に世話になった話として書かれています。最後に、むかし讃留霊王の世話になったように今は官(明治政府)のお陰で白分たちの漁域が守れたと結んでいます。
 この官裁というのは、明治19年に下津井の漁場争いで、香西漁民に有利な裁決が大阪控訴院によって下されたことをさします。つまり、自分たちの漁場が守れた嬉しさから武殼王(讃留霊玉)を連想し、敬っているのが「瀬居島漁場碑」です。

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香西漁民による大槌島での鯛網漁(讃岐国名勝図会)

 ところが、大正期に入ると歴史意識がさらに進化します

大正5年(1916)に香川県水産試験場が発行した「鯛漁業調査」には鯛網の起源として、次のように書かれています。 
鯛網ノ起源ハ、十二代景行天皇廿四年、当漁場大槌島・小槌島ノ南二海上ノ通航船呑ム悪鱒棲み居り候故、鱒又卜云フ。廿五年皇子日本武尊ノ御子讃留霊王、大鱒退治ノ勅ヲ奉じ、三月ヨリ弥々退治ノ御用意二付き、叫臣下ヲ召寄セ御評議色々工夫ノ上、始メテ網の事ヲ案出シ、魚引キ揚ゲ候段、
讃留霊王御感ジノ余り御褒美トシテ即ち網ヲ給リ、当網代ノ義、瀬居島海猟場御免許成られ候二付き、彼ノ網ヲ以テ鯛網当浦二於テ初メテ出来、瀬居島海ニテ猟業仕り候二付き、往古ヨリ瀬居島海香西浦漁場二相限り申し候。茲に因って香西鯛網ハ、当国ハ勿論、近国二於ケル網ノ元祖ニテ、是ヨリ追々諸網開キ候モノ也。鯛網ノ元祖讃留霊王御寿百廿五歳、仲哀天皇八年亮ゼラル。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓二讃王神号ヲ奉ルト言フ」
意訳変換しておくと
鯛網の起源は、十二代景行天皇24年、当漁場の大槌島・小槌島の南の海上に通航する船を飲み込む悪魚が棲み着いたことに始まる。25年に天王は皇子日本武尊の御子讃留霊王(神櫛王)に、悪魚退治を命じた。そこで王子は3月から準備を進め、臣下を呼び寄せて評議した結果、網で捕まえる案が出され、悪魚は引揚げられた。
讃留霊王は、この成果に感心し褒美として網を漁民に与えた。当漁港の漁場権については、瀬居島周辺が与えられ、王子から下賜された網で鯛網を行ったのは、香西浦が初めてである。また瀬居島周辺でも操業を行ってきたので、古くから瀬居島は香西浦の漁場とされてきた。よってここに香西鯛網はもちろん、近国における網の元祖であり、その他の網は、それから追々に開始された。鯛網の元祖である讃留霊王は寿125歳、仲哀天皇八年に亡くなった。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓に讃王神号を奉るという
ここでは、香西漁師が讃留霊王が悪魚退治の際に、網を初めて使用して大活躍し、その結果讃留霊王から漁場をもらったことになっています。
「自分たちが讃留霊王に従って悪魚退治を行った末裔である」だから、「瀬戸内海での特別な漁業圏を与えられた漁民」
という「選民意識」的な歴史意識を主張するようになっていることがうかがえます。
 「香西浦ノ漁夫御用子ア罷り出」というところは、江戸時代の御用水主そのままです。江戸時代は御用水主というだけで漁業権は保護されていましたから、讃留霊王の権威などは借りる必要はありませんでした。実際、近世の文書には漁民が讃留霊王のことに触れたものは見当たりません。
せい島の鯛網
瀬居島の鯛網漁(明治後期)

明治になり、香西浦はそれまでの水主浦としての特権を失います。
従来の漁業権が無効になり、漁場争いが激化していく中で、香西の漁民達は自分たちが「讃留霊王から保護を受けた特別な漁民集団」であることを主張し、いままでの権益を守っていく道を選んだのかもしれません。そのためにも遠く離れた讃岐富士の麓に鎮座する讃留霊王神社奉納品を贈ります。それが

「信徒は香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上」

と讃留霊王神社の碑文に記されることになったのでしょう。 香西漁民を習うかのように直島の漁民達もこの神社に多くの寄付をするようになります。いわば意識の伝播が見られるのです。民衆はその時代が必要とする歴史意識を生みだし、広げていくのです。