讃岐の日照りの時の村役人の対応は?

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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)

雨乞いは雨が降るまで踊っていた?

 雨乞い踊りが2年に1回踊られる地域の住人です。今年は「善女龍王」の幟棹を持って、行列に参加することになりました。雨乞いの役員さんが「雨乞い踊りを踊ったら必ず雨が降る。なぜなら、昔は雨が降るまで踊り続けたから」と言っていたことを思い出します。本当に、雨が降るまで踊っていたのでしょうか?

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大干害が村を襲ったときに、讃岐の村役人はどんな対応をしていたのでしょうか。
それを高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る文書から見ていきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大干ばつへの香川郡の庄屋さんたちの対応ぶりが「御用日帳」という文書に残されています。5月17日に次のように記されています。
「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

5月といっても旧暦ですから実際は6月と読み直した方がよいでしょう。このころから、日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。それで、まず星越龍王社で千力院の修験道者(山伏?)に依頼し、雨乞いを行います。
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綾子踊り行列 
効き目がなかったようで4日後の21日には、大護寺にも雨請を依頼します。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
それでも雨は降らなかったようです。そこで翌23日には、大庄屋(大政所)より村々の庄屋に次のような文書が廻されます。
これだけの干害になっているのであるから、村々から「自願い雨乞い」が申し出るくらいでないといけない。前もってこちらから申し渡したところ、行うと申し出た村はそれほど多くはなかった。村役人や小百姓は、一体どんなに心得ているのか、これほどにひどいわけだから、明日にでも雨乞いを執り行って当然といえる状況ではないか。明日から雨乞いを行うように!
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綾子踊りの子踊り
 この文言から、干害がひどいのに、それにも拘わらず 村の対応の遅さに腹を立てている様子がうかがえます。そして大庄屋が雨乞いの実施を強く督促しています。その上、各村に庄屋から出す雨乞い祈祷の依頼書案文も添えて通知しています。
 これを受けて二日後の25日には、石清尾、一宮、天川と拾力寺(大護寺などの十力寺?)が雨乞いの祈祷を始めることになったとの通知が出ています。

  私は、雨乞いは命じられるものではなく農民達が自然発生的に行い始めると思っていたので、この内容には驚きました。
この資料からは次のような事が分かります
① 大庄屋が公的なルートを通じて各村々の庄屋に雨乞いを行うことを命じていること。つまり、公的な行事として行われていたこと。
②雨が降るまでいろいろなチャンネルとルートを使って雨乞いを行っていること。
一つの集落だけでなく郡単位の雨乞いが行われていること
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香川町鮎滝の童洞淵では、どんなの雨乞いが行われたのか

 それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。修法とはおそらく祈祷でしょう。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。
 深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。
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童洞淵での雨乞いが農民にとって最後の頼みだったようです。

6月1日から雨乞い所へ参詣する当番割りが決めらます。
一日が由佐・西庄よ口光の三力村の代表者、
二日が川内原・大野、三日が寺井といった具合です。
さらに雨乞いの人足に各村より赤飯一升を差し入れるように頼んでます。
鮎滝は現在の高松空港の東側です。仏生山から毎日、各村々から当番が参詣し、雨乞いを行ったのです。つまりこの雨乞いは、ひとつの集落だけでなく一郡全体で共同で行われるもので、非常に大規模かつ継続的なものだったのでしょう。
   まさに、雨が降るまで、雨乞いは続けられてたのです。

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参考文献 丸尾寛  日照りに対する村の対応