今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。
 この祠については、真言宗の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが善女龍王のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。
そして、祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が残る寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には左の善女龍王像が安置されています。この堂は墨書銘「天文二年」(1547)が記されていますので、遅くとも16世紀中頃に雨乞祈祷が行われていたようです。
 ちなみに、龍を背負っていない、女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。
 また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。
像高47.5センチで、製作年代については南北朝時代とされています。

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また、本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。

 さらに、地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっており、一九世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 
 このように空海により行われた雨乞祈祷は、その後は、国家による雨乞行事として、各地の真言寺院で行われて行き、その祈りの対象となった善女龍王は雨乞の神様として信仰を集めていったのです。
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