喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています
坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。
東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。
念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
次に念仏踊りの構成について見てみましょう。
1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊 一人 下法 蛍亘 丁、 三二一小踊 二人 卓小川 一小踊 二人 西小川一小踊 二人 東ニ ー小踊 二人 西二一小踊 二人 東川津 一小踊 二人 西川津一鐘打 二十一人 東坂元 一鐘打 二十人 川原一鐘打 八人 真時 一鐘打 十六人 西坂元一鐘打ち 八人 下法 一鐘打 十人 上法一團 二十一人 東坂元 一團 二十人 川原一團 八人 真時 一團 十六人 西坂元一團 八人 下法 一合印 真時一合印 下法 一小のほり 三本 下法一小のほり 八本 西川津 一小のはり 十本 卓川津一小のほり 八本 卓ニ ー小のほり 八本 西二一小のほり 六本 西小川 一小のほり 六本 卓小川一のほり 五本 上法 一笠ばこ 西二一笠ほこ 康ニ ー長柄 三本 卓坂元一長柄 三本 川原 一長柄 一本 真時一長柄 三本 西坂元 一赤熊鑓 二本 西小川一赤熊鑓 二本 卓小川 一赤熊鑓 二本 西川津一赤熊鑓 二本 下法 一赤熊鑓 二本 上法一赤熊鑓 二本 東ニ ー赤熊鑓 二本 西二一大鳥毛 二本 川原 一大鳥毛 二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。
いつまで踊られたいたのでしょうか?
坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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