シーボルト 瀬戸内海を行く

文政九年(一八二六)三月春先に 瀬戸内海を過ぎたオランダ使節の一行がありました。和船を借りての航海ですが、そのなかにオランダ東インド会社の商館付き医者のシーボルトの姿がありました。彼はその航路について丹念に書きとめています。
それを参考に下関から室津までの瀬戸内海の船旅を追ってみることにしましょう。
 
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シーボルトの乗った和船は、三月二日朝の八時近くに下関の港を出帆します。
3月初めは瀬戸内海はまだ西風の季節で、船は帆を一ばいに広げて風をはらみ、まるで飛ぶように周防灘に出て、右手に姫島、前方に佐田岬が望まれる位置に出て、そこから方向を転じながら山陽路よりの笠戸島、長島と海峡を抜けてゆきます。長島と陸地とのあいだは極めて狭いところで、その両側にある港が上関と室津です。

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後の高杉晋作が、
「室津・上関や棹さしゃとどく、何故にとどかぬわが思い」
 と歌ったところです。本当に潮の引いたときに長い竹棹だったら届きそうな気がします。毛利氏が防長二州に封じ込められてからは、ここに代官所を置き、毛利氏の別邸である「お茶屋敷」も設けていました。朝鮮通信使の来港の折には接待所としても使われました。
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どうしてこのような狭い水路が瀬戸内海の重要な航路となったのでしょうか。
それは周防灘の難所を避けるためと、この海峡を流れる潮流をうまく利用すれば、沖をゆく数倍の早さで船脚を速めることができたからです。
 しかし、シーボルトの船はこの上関には停泊していません。そこから、平郡島と屋代島のあいだを通って、屋代島の沖家室に午後十時に着いています。下関を出て十四時間の航海です。沖家室は、その当時は「家室千軒」と言われて、ずいぶん盛んな港だったようです。しかし今は離島の漁港の風情です。近代になって瀬戸内を航海する船が、ここに寄港し、また停泊する必要がなくなったからです。
瀬戸内海には、こうして沖家室のような運命をたどった港が至るところにあります。しかし、今はそこにしかないものが残っていたりしてタイムカプセルのとうで、私にとっては宝箱のような場所です。

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さて、シーボルトの船は、朝早く沖家室を出ると航路を東に向け、四国側の忽那(こつな)諸島のあいだを行き、そこから東北に針路を変えながら倉橋島の南を通って、下蒲刈、上蒲刈の島々を右手に見ながら御手洗の沖に達したのが午後五時半頃でした。
 当時の船の多くは、その倉橋島の南端にある鹿老渡の港でも停泊することがありました。この港もいまは沖家室と同じ状況です。そこは、老人たちだけの小さな村にしぼんでいます。

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 しぼんでいたと言えば、御手洗もそうです。

ここは広島県の大崎下島の片隅に忘れられたようにしてある小さな港ですが、徳川時代の繁栄は大したものでした。九州辺の大名が船で瀬戸内をゆくときの航海は、この御手洗を通っていました。そうした大名行列を迎えても、この土地は少しも動じないほどの宿泊施設を持っていたのです。そればかりでなく遊興の施設もととのっていました。
 いま、この港にはる若胡子屋(わかえびす)の建築が残っています。それは堂々たる白壁造りの二階建てで、かつては遊女百人を擁していたといいます。細川越中守などは、ここで千金を投じて遊んだといいます。
御手洗は、大崎上島にある木江の港と共にオチヨロ船でも有名でした。  
御手洗女郎衆の髪の毛は強い
  上り下りの船つなぐ∃
 というのがあれば、木江には、
  木江泊れば たで船七日
  七日泊れば また七日
 というような唄がうたわれていました。
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オチョロ船をこぎよせてくる女郎衆たちの情をうたったものです。
オチョロは、お女郎のことでしょう。馴染の船が港に入ってくると、その船の帆で誰が乗っているかを知っている女郎衆たちが、とるものもとりあえず小さな舟を漕ぎ出してそれを迎えに行くのです。そして、彼女達はそこに停泊の間、客の身の廻りの世話をしました。その情にほだされた客たちは、船の修理などにことよせて、港での停泊をのばしてしまう。たで船というのは、船脚を軽くするために海辺に船を引きあげて、そこで船底を焚火で焼くことをいいます。木江の港はそうした作業に便利であり、また造船業も発達していました。
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しかし、シーボルトの船は、その御手洗も木江をも素通りしてゆきます。
そして右手に無数の島が連なっているのをみながら三原の沖に停船します。
夜の十時というから、相当の強行軍をしています。月はなく海上はまっくらな闇の中、船は港に入らず、この沖で一泊します。
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 普通の商船だったら、三原に近い糸崎の港に入るか尾道に寄港してゆきます。
尾道は徳川時代にはこの地方の物資の集散地として「出船千牌、入船千牌」と言われるくら賑わった港でした。また、千光寺から見降ろす港の風景は、まさに山紫水明とも言わるべき詩情を呈していて文人達がよく訪れています。頼山陽とか田能村竹田などもこの風物を愛して度々この地を訪れ作品を残しています。  
盤石坐すべし 松拠るべし
  松翠欠くるところ海光あらはる
  六年重ねて来る千光寺
  山紫水明指顧にあり
                      頼山陽
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 ところで、シーボルトの船は夜明けと共に三原の沖を出発すると、尾道の方に向かわないで因島の西海岸を南下しながら弓削島の方に下ってゆき、生名・弓削の南島を左手にみながら進んで水島灘に出てゆきます。
 潮流に乗った勢いか、この辺りの船脚は意外に早く、午前中には観音をまつった阿伏兎岬の沖を通過しています。
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 阿伏兎岬を少し東によった所に鞆の港があります。

鞆は、上関と同じように朝鮮通信使が休息していった港で、この港の小さな岡の上にある福禅寺は、その来聴便たちの残していった詩文の書が幾枚も額にしてかけられていました。その通信使の一人である李邦彦は、ここに「日東第一形勝」という形容を与えています。
 鞆には、足利尊氏が建てた安国寺を始めとして、長福寺・円福寺・玉泉寺・小杉寺・地蔵院・阿弥陀寺・医王寺等々と古い寺々があります。よくもこれほどの寺がこの港町で維持されたと思うほどです。当時は、この寺を支える豊かな人たちが大勢いたと言うことでしょう。

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 いまはすっかり跡形もなくなってしまったが、有磯というところは古くからの遊女町で、平家物語に出てくる奴可の入道西寂が四国の河野氏を討っての帰りにここに立ち寄ったところです。戦勝に酔った入道らは、ここで遊女をあげての大遊興でした。約三百の兵がここに泊まって騒いだというから、その当時から相当な港だったのでしょう。
鞆の遊郭はこのように全国にまで知られていたようです。

港ある所には傾城ありで、その傾城町の大きさが同時に港町の繁栄をもあらわしていました。
 ところがシーボルトの船は、この鞆の港をも素通りしてゆきます。オランダ商館長が、よほどに先を急いでいたらしいのです。
さて、この船旅の続きは次回へ
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