シーボルト 瀬戸内海を行く 鞆から室津まで

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シーボルトの船は、鞆の港も素通りしてゆきます。
オランダ商館長が、よほどに先を急いでいたらしいのです。無理にも船を動かそうとします。しかし、帆船の時代に風に逆らい、潮流にあらがって進むのはムリです。
そのときは曳船を雇うより他は仕方がありません。
このときも、商館長の命が降ります。
船は曳船四十艘をやとって水島灘を漕ぎ進みます。
「四十艘に百五十、あるいはそれ以上の擢」とありますから、三挺櫓や八挺櫓の舟なども混ていたのでしょう。船は、風のない瀬戸内の海を、東へ進んで白石島、塩飽諸島と過ぎてゆきます。
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 シーボルトの船は、この辺りの島々を抜けていきますが、そのときに右手四国の側に金毘羅のある琴平山をみたとあります。琴平山は海の神様として有名な金刀比羅官のある山です。
金刀比羅信仰が盛んになり、全国から参詣客が集まるようになったのは徳川時代に入ってからです。丸に金の字の入った御礼が海難除け、災害除けの護符として飛ぶように出ていきます。船乗り達にとって、それは羅針盤と同じほどの必需品になっていました。 

山陽側の下津井も、屈指の港でした。

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ここにも下津井節として古くから伝わる唄があります。  
下津井港は入りよて出よて
  まともまぎよて まぎりよて∃
   金波楼から鹿の子が招く
  上り 下りの船とめるヨ
といった文句です。いまは縫製工場となった土蔵造りが目立ります。
しかし、この倉庫造りは北海道から運ばれてきた鰊柏が、山と積み込まれた鰊庫でした。日本海から瀬戸内に入った北前船は、こうして中国地方の港にその積荷をおろしたのです。それが、綿花の肥料に使われ、この地帯を紡績地帯に育て上げます。
 さて、シーボルトの船の後を追いましょう。
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船はその日の夕方、児島半島の日比に着きます。

 そしてまたも船中で一泊、翌日早く日比に上陸を許されます。
そこでシーボルトは植物や山石石の観察をし、塩田の視察などを行なっています。
彼は、瀬戸内の航海についてこう述べています。 
「山水の自然なる美観に比べて見劣りもなく我等を慰むるは、此の海上の活澄なる交通なり。吾人は数百の商船にあひたり。無数の漁舟は、日の中は楽しげなる櫂の歌にてあたりを賑やかし、夜は焚く火に海の面を照州らすなり一
山水の美観とともに心を楽しましてくれるのは、行き交う舟だ。出会う商船ばかりでなく、漁船の楽しげな歌声があたりを賑わわし、夜は漁り火が海面を照らすと書いています。瀬戸内海の交通の賑やかさと、シーボルトが楽しんでいる様子がが伝わってきます。

その日はまた風がありません。
シーボルトの船は、再び曳船をやとって日比の入江を出ますが、潮流の関係で船はそこから進まないのです。ついに、その港外で休み翌日、西風を得て右方に直島諸島、次いで小豆島をみながら、家島群島の西方を北上して室津の港に入ります。
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一般の商船なら、牛窓〔岡山県)の港に入ったでしょう。

牛窓もまた朝鮮通信使の船が停泊した港町です。
港のすぐ近くに本蓮寺の堂々たる建物がたっています。    
牛窓の浪のしほさい島よみ よせてし君にあはずかもあらむ
 という歌が万葉集に出てきますが、牛窓は奈良朝時代からの重要港でした。
ここは、すぐ近くに虫明の瀬戸があり、潮待ちの港としてどうしてもここに停まらなければならなかったのです。 
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さて、室津もは、古くから栄えた有名な港です。

四国に流される法然上人も、この港で数日を送っています。
徳川時代の西国大名たちは、ここで上陸し行列をととのえて山陽道を進みました。
ここには、さつま屋・肥前屋・一津屋・紀伊国屋・筑前屋等の海の本陣や脇本陣が軒をならべていました。なかでも、さつま屋・肥前屋などは堂々たる造りで、いまもその名残りが偲ばれます。
 さて、シーボルトの航海がそうであったように、多くの大名はここから陸路をとるます。しかし、北や南の地方から物資を運んできた船は、大坂を目指ざします。その場合、飾磨の沖を通り明石海峡を経て、兵庫、尼崎と寄港してゆく航路をとります。明石海峡の潮の早さが、明石と岩屋の港を発達させました。これも潮待ちのためです。
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千石船と限りない夢

瀬戸内の交通は、島々をぬうように複雑な水路をたどらなければなりませんでした。
それは、シーボルトの航海を追うことによって分かります。
岬かと思えば島であり、島かと思えば岬だというような地形、しかも、その間を潮流が複雑な流れをなしているような海。
シーボルトも、とてもこの海は様子を知ったものでなければ航行は出来ないであろうと記しています。風の都合によれば、それによって航路も変わります。
それが当時の瀬戸内海の航路の定めだったのです。
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