片田舎の善通寺に師団がやって来たのはどうして?

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赤煉瓦の旧11師団倉庫と善通寺五重塔

日清戦争で得た賠償金は3億6000万円は、当時の国家予算の3年分にあたるものでした。その約84%は軍事費に使われたと言われます。その使用用途のひとつが次の戦争に備えての師団増設でした。師団空白地帯だった四国については善通寺が選ばれます。それまで城下町に設置されていた師団が、四国では田舎町に設置されることになります。
なぜ善通寺が選ばれたのでしょう。そして、善通寺はどのように変化していったのでしょう?
善通寺村略図2 明治
明治の善通寺村略図(善通寺の周りに市街地はない)

それまでの善通寺は片田舎?

 江戸時代の善通寺村は、真言宗善通寺の小さな門前町として成立し、四国八十八カ所巡礼や金比羅参りの宿場町として栄えてきたといわれます。それではいったいどのくらいの規模の「町」だったのでしょうか。1890(明治23)年の人口は、
善通寺村 3,099人、戸数637
竜川村  3,737人、戸数799
また、善通寺境内周辺の戸数は約250程度で、主な建造物も善通寺以外に見当たりません。 善通寺村の当時の閑散とした様子がうかがえます。宿場街とは言えないようです。

善通寺村略図拡大
明治の善通寺周辺拡大図

なぜ、お城のある高松や丸亀に置かれなかったかのでしょう?
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
それまでの師団司令部は、県庁所在地などに設置されてきました。城下町でもない片田舎の善通寺村への設置決定は異例でした。なぜ、高松や丸亀に置かれなかったのでしょうか
「師団選定二関スル方針」によると、
(1)多度津・詫間等の港湾が近い
(2)湧き水などの地下水源が豊富
(3)大麻山、五岳山の周辺環境が、演習時の軍事訓練に最適
(4)松山・高知・徳島の各連隊への運輸交通手段の便利
確かに丸亀・高松はお城はありますが、師団設置が出来るほどの広さを確保することは難しかったようです。また、多度津港は当時は香川県NO1の港湾施設を有していましたし、そこと鉄道で結ばれていると言うことは何かと便利でした。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口の工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれたそうです。大陸で起きるであろう次の戦争への出征を考えても、処理能力のある港湾施設は必須です。
 それと日清戦争の経験から次の日露戦争にむけて考えなければならないのは、重火器・騎兵の整備・訓練や医療設備の充実などです。そうすると野砲が撃てる射撃場や訓練所が必要になってきます。広い練兵場や周辺には山砲射撃場も必要です。そうすると丸亀で手狭になります。善通寺は背後の大麻山が射撃場として使用できます。そんな思惑もあったようです。

 
11師団司令部開庁通知

11師団司令部開庁通知

師団開設が決定した翌年に、隣の吉田村では次のような文書が作成されています。
「師団新設ノ結果、戸数ノ繁殖多大ナル今日ニシテ、数年ヲ出デズ大都市トモナルベキ有望ノ地二付」
意訳変換しておくと
「師団新設の結果、人口や戸数が大幅に増加し、数年のうちに大都市に成長する有望な地」

ここには、
師団開設によって営舎・施設建設、将校兵の増加などで、急速に都市化して、将来的に有望な地域に発展していく予想と、大きな期待が寄せられています。 
 こうして1898(明治31)年12月1日、第十一師団は善通寺に開庁されます。
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師団設置決定は、善通寺に地価上昇をもたらします。

香川新報(四国新聞の前身)には、第11師団の用地の総買収面積について「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991ヘクタール)と報じ、善通寺村の地価について次のように報じています。
「一反歩七十圓位の地は三百圓位に上騰せる様報し置きたる庭、昨今の虚にては一反歩六百圓或は七百圓と云う有様にて殆と手を兼る向も少なからす」
意訳変換しておくと

もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様であると、

そして、地主による地上げの横暴さを伝えています。さらに地価は1898(明治31)年には約2.5倍の1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らが新たな商売に進出し、連隊前に店を構えるようになります。
 師団用地の買収については最初は、地主が小作への償金を一反歩につき三十円交付する取り決めでした。ところが手数料と称し七円を差し引き二十三円しか支払わない事件が起きています。これに対して小作者は訴訟しています。

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1897(明治30)年、第一期工事として、次の各営舎が完成します。
騎兵第十一連隊
歩兵第四十三連隊
山砲兵及び歩兵第二十二旅団司令部
1898(明治31)年には、第二期工事として次の各営舎が完成します。
輜重兵第十一大隊
工兵第十一大隊
第十一師団司令部の各営舎
この工事期間中、善通寺には工事関係者が2000~3000人近く流入しました。120年前の善通寺は大建築ラッシュで、それまで田んぼが造成されて、軍関係の大きな建物が次々と建ち並んでいき、駅前通は大変貌していたようです。

十一師団建築物供用年一覧
11師団各建築物の供用開始年一覧

軍都善通寺の道路整備は、どうすすめられたのでしょうか?

大正期の善通寺では、各種インフラ整備が進められます。
例えば市内の道路整備が進められますが、特徴的なのは道路の広さです。大規模な軍事輸送に耐えれる道路整備が求められた結果、市街地を縦横に貫く広く整然とした道が伸びていきます。

善通寺航空写真(戦後)
一直線に伸びる広い善通寺の道路

 1922(大正11)年には、善通寺駅から善通寺境内五重塔南までの直線道路は約1.2kmが完成します。そして整備された道を人力車や馬車が走り出します。
 師団で廃用となった馬を払い下げてもらい乗合馬車が走行します。
当時の乗合馬車は箱型・鉄輪の四輪車で、馬一頭のタイプと二頭のタイプがあり、馬一頭の馬車は定員が10名程度でした。その後は乗合自動車(バス)、タクシーなどが行き交うようになり、師団の入隊や除隊者で利用者も多かったようです。

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 しかし、道路面積が広がると維持費が増えます。
当時の里道・県道は、赤土に砂利を入れて固める整備方法でした。そのため台風や大雨に弱く、補修のための支出が耐えませんでした。激しい軍事輸送のため莫大な復旧費を必要とし。善通寺町の土木財政状況は常に火の車でした。
陸軍特別大演習で整備されたのは何か?
1922(大正11)年に、当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が善通寺で行われます。これを前に、建築物や輸送手段が一新されることになります。特に生活環境を大きく変化させたのは琴平参宮電鉄の開通です。
 すでに讃岐鐡道は1889(明治22)年に多度津を起点とし、丸亀一琴平間で営業を始めていました。善通寺に師団が置かれた理由の一つが鉄道で多度津と結ばれていることでした。開業当時の客車は俗に「マッチ箱」と呼ばれる定員20名の小型のもので、善通寺駅も金比羅参りの通過地点として小ぶりなものでした。

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 陸軍特別大演習とは

西軍(第五師団・広島)と東軍(第十一師団)によって三豊郡と仲多度郡において3日間の模擬戦闘が行われたものです。それに、当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来ることになります。

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皇太子(後の昭和天皇)の讃岐での演習視察
そのため様々な記念事業が行わます。その一つとして讃岐鉄道の善通寺駅が改修されたのです。それまでの善通寺駅は大変狭く、師団の大移動時などに限界がありましたので、これを機に改修がなされます。

善通寺駅 初代
初代善通寺駅
 当時の「香川新報」では「善通寺新駅の美観大改修を加えて面目一新す」との見出しにより、次のような記事を掲載しています。
本驛舎は切破風を造り平屋建にて建坪八十坪五合にて正面に車寄せ新設し 此表面三間横二間一尺にて待合所は十間に五間南手にある。二等待ち合所は二間半四方。驛長室は二間半四方出札室は三間半四方北手にある小荷物室は二間半歩廊は幅二十一尺延長六百尺下り歩廊は幅六百尺延長十八尺線路の階段をアスファルト塗とし歩廊屋根を新に葺くなど何れも新築同様に面目一新した」
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現在の善通寺駅(1960年代頃)

新しく近代的駅舎として生まれ変わった善通寺駅は、新たな善通寺の名所になります。また、それまでの定員80名という客車の輸送能力アップと共に都市的な生活環境への変化を感じさせるものとなったようです。
 さらに大演習の記念事業の一つとして挙げられるのが琴平参宮電鉄(琴参:路面電車)の開業です。琴参の計画案を見ると善通寺駅逓は現JR駅の前にあるのです。私の記憶では、赤門前を通って琴平へ抜けていたはずなのですが・・・
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大麻付近を走る琴参電車 向こう側に土讃線と四国新道

琴平参宮電鉄の路線が変更された理由は?

11師団配置図

この鉄道の善通寺の終点は、計画では現善通寺駅前でした。そして琴平への路線は拡張整備された駅前通りを真っ直ぐに西進して、善通寺南門まで進みます。そこから直角に南に曲がって、師団本部前を通って琴平まで延長する計画でした。まさに、師団の各隊を縫うように路線は考えられていいました。ところが、この路線は実現しませんでした。その理由は、騎兵第十一大隊から次のようなクレームがでたからです。
「電車の騒音が軍馬の訓練教育上支障を来す」
確かに騎兵隊は現在の四国学院にありました。「その前を電車が通ると、騒音で軍馬の育成に支障がでる」というのです。

善通寺地図明治34年
明治34年の善通寺

これに対して琴参側は「善通寺への参拝客や師団の軍人や家族の面会人の利便性のために・・」と計画案を計7回申請しています。しかし、当局に聞き入れられることはありませんでした。2本北側の赤門通り前を左折し、本郷通りを通るルートに変更されたのです。

DSC02304琴参電車 善通寺本郷通り1957年
          本郷通りを走る琴参電車
このため駅前通りに琴参電車が走ることはなくなりました。確かに、土讃線善通寺駅で降りて、そこにある琴参駅で乗り換えられた方が利便性は高かったはずです。今の私からすると、当時の軍隊の尊大さや事大主義を感じますが、当時は軍隊は何より強い存在でした。

善通寺駅/土讃本線―1964-12-27

琴参電車が走る予定だった善通寺駅前通(1964年)
こうして師団勤務の軍人9000人 家族も入れると一万人を越える人々がこの地で生活するようになります。その人々への衣食住の需要をみたす施設や商店が整備された駅前通の北側に並ぶことになります。そして南側には、軍施設が連続して配置されます。駅前の北と南では対照的な風景が軍都善通寺の特色となりました。