善通寺にやってきた師団は、産業に何をもたらしたか?

設立されたばかりの電力会社には追い風に・・
まず、電力関係では、設立されたばかりの讃岐電灯株式会社の成長の追い風になりました。師団創立の前年に操業を始めたこの電力会社は、需要数の拡大に苦戦していました。しかし、師団開設後の日露戦争期に師団から電灯等の大口契約を受け、1000灯余りが新設されるなど順風が吹きます。
また金融面では、師団設置に伴う金融的処理の激増を受け、1900(明治33)に百十四銀行が善通寺に支金庫を設置、国庫金の取り扱いを開始します。さらに1913(大正2)年には善通寺支店に格上げされます。

駅前通には旅館が建ち並ぶ
善通寺駅前通りの片原町付近では、師団指定の旅館が建ち並ぶようになります。特に戦局が激しく多くの兵隊が召集された際には、郷土から面会に来る家族の利用で大変賑わったといいます。また利用客数も多く、師団指定の旅館で部屋数が足りない場合には、間数の多い一般の民家が客を泊めたそうです。
片原町では旅館の他、師団相手の商店が建ち並ぶようになり、兵隊の記念写真を撮影する写真館や軍靴を修理して販売する店、土産用として杯を売る店など様々な顔ぶれがそろいます。この頃、農村部における麦桿真田共同販売組合の設立、これに関連して善通寺町隣接村にも有限責任信用購買組合が設立されるなど、いわゆる経済行為の組織化が進行していきます。
一方、歳入の約7割を町税で賄っていた善通寺町の財政基盤は、1902(明治35)年~1913(大正2)年の合計予算額はおよそ平均3万7千円程度にまで膨らみます。師団開設以前の1890(明治23)年の約1213円から比べると30倍近くの急激な伸びとなっています。

昭和恐慌の影響をあまり受けなった善通寺?
昭和初期の日本経済は1921(大正10)年に起こった関東大震災を引き金に、1927(昭和2)年の金融恐慌によって大打撃を受けました。香川県下においても銀行の取り付け騒ぎが各地で起こるなどの混乱が起きましたが、善通寺町は例外として恐慌の影響が少なかったようです。

1926(大正15)年、琴平銀行の休業や高松百十四銀行善通寺支店の取付けなど、金融恐慌が襲いかかってきます。しかし、善通寺支店の取付け期間はわずか一日で、終わります。
これにはいくつかの理由が考えられるようですが、一つは善通寺町の製造業を中心とする第2次産業の割合が低かったことが挙げられます。さらに当時は第十一師団の存在と善通寺参詣道に沿った道路に関わる公共事業が展開中で、好景気感が強く住民が深刻な不況を感じる雰囲気になかったようです。

「昭和二年の善通寺町会会議録」で当時の予算編成について見てみると、招魂祭諸費に1000円を計上していることや、遊興税徴収交付金が144円増加となった理由を
「遊興税徴収額が前年度に比して増収の見込みである」
と記されています。軍都 + 門前町としての観光と軍人の遊興飲食に関するサービス業が繁盛し潤っていたことが分かります。善通寺には1899(明治32)年に完成した劇場「富士見座」や、善通寺南大門南にも「大栄座」という劇場が存在していて、入場客も多かったのです。
むしろ善通寺の場合、金融恐慌ではなく、1925(大正14)年陸軍歩兵第四十三連隊の徳島移動など、連隊縮小や移転などの「軍縮」の方が大きな問題でした。

15年戦争下の善通寺は?
日本は1937(昭和12)年、日中戦争から15年戦争に突入していきます。これに応じて第十一師団の出動・帰還も多くなり、善通寺では師団に対して町をあげての歓送迎が行われました。善通寺駅からの出征には町役場でサイレンを鳴らして町民に予告し、出征軍人の家族はもちろん、町長、町会議員、役場を始めとする公務員、その他の団体代表者、小中学校の児童・生徒をあわせ、約7000人が毎回見送りに出ました。
1939(昭和14)年の善通寺銃後奉公会の設置や、「善通寺町税条例」(生活用品に税をかける)を施行して戦争に協力し、師団が身近にある環境として、軍部への協力姿勢には強いものがありました。
しかし、戦況が悪くなるにつれ、強い統制経済下における物資不足と物価高騰、出征による人員不足(労賃の値上がり)により、善通寺の主たる事業となっていた土木工事や建設事業に支障がでるようになります。

どうして軍都 善通寺は空襲を受けなかったの?
敗戦末期の1945(昭和20)年2月に香川県下(観音寺町沖合)で初めて空襲があり、第十一師団地の善通寺も、本土決戦や防空訓練など臨戦態勢をとります。
しかし、善通寺は軍都にもかかわらず空襲を受けませんでした。
それは1942(昭和17)年1月に国内で初めて開設された善通寺捕虜収容所があったためとされています。敗戦時にはアメリカ将校・准士官以下544名、イギリス404名が収容されていたです。その存在により戦災を免れました。
敗戦に伴い11師団は高知で解体され、終焉を向かえます。その後、師団の土地、建物は一旦国有財産化されますが、その後町の復興計画として払い下げられます。


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