11師団と善通寺 遊郭設置問題について

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偕行社
日清戦争後1897年に、師団設置が決まると師団工事のため多くの労働者が善通寺に流入します。その数は3000人~5000人になります。入営してくる兵士たちも増えることが予想されました。善通寺では風紀の乱れが懸念されるようになります。その結果、
公娼を設けされは思はさるの惨状を極むること無しと言い難し」
として遊郭の善通寺への設置が県によって計画されます。
しかし、遊郭の設置場所について利権の絡んだ対立と紛争を招きました。香川新報では、当時のようすを次のように報じています。
「村費は師團地たる以前は、経常費一千六百円位なりしに一朝師團地となるや大に増加し、三十年度の経常費は二千八百餘にて殆と三千圓に垂らんとするに至る。設置前期の如く(善通寺村の)東北部の多く免租地となりし土地の以前負担せし経費に恩澤を被らざる西南部山間居住者か多く負擔せざる可からさることなり。のみならす彼の賑盛の地に住みし多く師團の恩澤を蒙る人民は公民権を有する者すら少なき有様なる。以て戸數割負擔の如きも西南部の住民に比すれは大に少なし。慈に於てか遊廓地を西南部の地に相せば之に連れて諸種の商業家も出來掛可けれは是非遊廓地は西南部の地に置かんとの希望に全地方住民の頭脳は悉く之れありたり」
意訳変換しておくと
村費に関しては師団設置以前は、経常費1600円程度の規模であった。ところが師團ができると、大幅に増加し、明治30年度の経常費は、2800円にまでなった、師団が出来ると、師団の土地は官営なので免租地となり、税収は大幅に落ち込んだ。一方、土地買収などに恩澤を受けなかった西南部山間部(有岡地区)の住民が多くの負担を被ることになった。
 そればかりか市街地化した地区に住む住人は、師團から多くの恩恵を受けながら、公民権を持つ者が少ない有様となった。このため戸数割負担などの面から見ても、有岡地区の住民の不満は大きくなった。そこで、遊廓地を有岡の地に誘致すれば、さまざまな商業地も生まれ、有岡の発展になると考えた。そのためにも、遊廓地は有岡に設置しようという機運が住民の間には高まった。
11師団設置前後(M30年)遊郭位置
明治30年の11師団配置図 有岡には軍施設はない
善通寺村では、田んぼが国により買い上げられ、そこに師団が設置され官有地となりました。官有地からは税金が入ってきません。そのため税収入不足を補填するために、地租税督促に係る手数料条例の制定など、村費の増収を図ろうとしました。これに対して、軍用地として土地買い上げの恩恵を受けなかった善通寺西南部(有岡)の住民の負担は増すばかりです。

11師団 有岡の遊郭候補地

明治30年の十一師団配置図と3つの遊郭誘致候補地

この対応策として、善通寺大池周辺の有岡の住民は遊廓を誘致を進めようとします。
上の拡大図を見ると、有岡周辺の3つが候補地だったことが分かります。しかし、有岡地区住民の県に対する再三の請願もむなしく「兵舎から近すぎる」との理由から却下されました。そして、県が計画当初に候補地としていた善通寺西部砂古裏地区に工事が着手されます。それは師団司令部開庁の1898(明治31)年のことでした。
11師団配置図(明治29年)遊郭入り
遊郭候補地が赤く書き込まれた地図(明治29年)

明治29年に書かれた上の地図を見ると、香色山の北側麓の地に「遊廓用地1万五千坪」と書き込まれています。

11師団配置図 遊郭
上図拡大図
軍は、遊郭をどこに設置するかまで、この時点で腹案をもっていたことが分かります。これでは、有岡の住民達の誘致運動が成功するはずがありません。
 ちなみにこの地図には、練兵場の位置が各連隊に挟まれるようにあります。砲兵隊や騎兵隊の実際に設置された場所とも異なります。その後に、変更があったことがうかがえます。 
大正11年の「最新善通寺市街図」 には、実際に設置された遊廓の位置が記されています。
善通寺地図北部(大正時代後期)善通寺・遊郭
大正11年の「最新善通寺市街図」
善通寺町西山のあたりで現在は住宅街となっていますが、道幅が広くなっている一画もあります。古い住宅地図によると、この付近は「砂古裏」と呼ばれていたようです。妓楼は、寿楼、花月楼、第二寿楼、房栄楼(ふさえいろう)、朝日楼、豊楼、陽貴楼、大正楼、吾妻楼、勇誠楼、いろは楼の11軒があり、常時50名ほどの娼婦がいたようです。明治の都市計画には、遊郭設置まで含まれていたようです。
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この遊郭設置をめぐる新聞記事からは、師団設置による善通寺への影響には住民ごとに「格差」があったことがわかります。恩恵を受けたのは、土地買収に応じた地主達、そして新たに師団を相手に商売をはじめ出入り業者となった富裕層です。それと対照的に、有岡大池周辺の住民は、土地の官有地化によって切迫した村の地租財政の犠牲者として、急激な近代化プロセスに埋もれていったと言えるのかもしれません。有岡の住民の遊廓地請願は「師団兵舎から近すぎる」という軍部優先の理由から一蹴されたことは、象徴的な事件のように思えます。
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ちなみにこの遊廓問題の後、県は善通寺村の行財政運営の困難を懸念し、1901(明治34)年に隣接する吉田村及び麻野村を合併させ、善通寺町が発足することになります。

参考文献 柴田久 師団設置による都市形成への影響に関する一考察
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