善通寺11師団の跡をめぐって歩いてみましょう

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まず列車で降り立つのがJR善通寺駅です。

 この駅舎は現在は  登録有形文化財(建造物)に指定されています。
寄棟造を本屋として真壁造につくり,西正面やや北寄りに切妻造でハーフティンバー風意匠の車寄ポーチを張り出しています。舟肘木状の持送りなどに和風デザインもはめ込まれ和洋折衷の建物です。この建物は1922(大正11)年に当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が行われた際に、モニュメント建築として建てられました。
当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来た際には、ここで乗下車されました。百年近くの歳月を経まていますが、近年改修され輝きを保っています。
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 駅前から真っ直ぐ西に伸びて善通寺境内五重塔南まで続く直線道路約1.2kmが完成するのもこの時です。整備された真っ直ぐで広い駅前通りを人力車や馬車が行き交いました。その道筋を進んで行きましょう。
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駅前通りの南側(左手)に師団の各部隊が配置されていました。

現在の市役所は、軍の水源地でした。そして、その奥に偕行社が建っています。偕行社とは、旧日本陸軍将校の親睦共済団体です。「偕行」とは一緒に進むという意味で「詩経」に由来します。この建物は第十一師団の将校たちの社交場として1903(明36)年5月に新築落成しています。
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先ほど紹介した陸軍特別大演習のときには昭和天皇の仮泊所となりました。敗戦後には、進駐してきた英軍の慰安施設ダンスホールに使われたこともあります。その後は、善通寺市役所等として使われ、現在は改修を受けてお色直しをした上で善通寺市立郷土館として使われています。

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駅前通に戻って、西進すると善通寺郵便局が現れます。

郵便局の玄関脇に輜重(しちょう)部隊の碑があります。

ここが輜重部隊第11大隊の正門でした。輜重兵とは、軍隊に付属する食事・武器・弾薬・衣服などの輸送供給に当たった部隊です。師団の軍人9000人の衣食住に必要なものは、ここに納入されました。出入りの業者が忙しく出入りした所です。現在、郵便局の裏は、自衛隊の自動車教習所となっていますが、東中学校までの広大な区画を占めていました。

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善通寺駅前の片原町は、旅館街でした。

 わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。利用客の多い時は、ー部屋を同じ地方から来た数組の家族が利用したそうです。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。しかし、費用は、一切軍からでなかったようです。まさに、軍に奉仕する無償のボランテイアだったようです。

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この辺りは旅館以外にも軍に関係する商店が多く並んでいました。
駅前には
軍人の古着・古靴を再生し軍に納めていた店、
軍人や一般の人のために真心石けんやメリヤスを売る店、
桜模様をはじめ様々な模様の大ったさかずきを除隊時の土産用として売るさかずき屋、
兵士の記念写真などを写していた水尾写真館
が軒を並べていました。
また、市役所前の瀬川酒店は当時の師団長から店の酒を大変おいしいと言われ「師団一」という名前をつけてもらっています。しかし、「師団一」というお酒も戦後にふさわしくないということで改名したようです。 今では当時の旅館街もなくなり、近年まであった瀬川酒店も姿を消しました。
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市民会館・四国学院は騎兵隊跡です

駅前通りを進んでいくと市民会館です。この玄関前には馬の頭部のレリーフを埋めこんだ碑が道に沿って建てられています。ここには騎兵連隊が置かれ、軍馬が飼育され、広い馬場もありました。

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 第一次世界大戦までは砲兵が大砲を発射し、騎兵が包囲攻撃や中央突破で敵陣を混乱させ、その後歩兵が銃に着剣して肉迫し、白兵戦でとどめをさすという戦法でした。
 香川県でも1904(明37)年「徴発馬匹取扱規則」を定め、馬籍簿を作成して馬の届出を義務づけ、軍への供出に備えさせました。皇子の森に繋留の設備を設け、兵隊の召集に準じて、農耕馬の徴発を行ったのです。
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 この区画は、現在は市民会館、図書館、観光協会、商工会議所、四国学院大学、検察庁、裁判所などの敷地で広大なものです。敗戦後には、イギリス連邦軍が使用しました。一部の建物が四国学院の中に残っていると聞いて行ってみました。
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正門から入り守衛さんに許可をもらって、キャンパスを歩くと・・・
二階建ての騎兵隊兵舎が四国学院大学の教養部棟として今も使われていました。このキャンパスをかつては、軍馬が闊歩していた時代があるのです。それを戦後直後の航空写真で、騎兵隊跡を見ておきましょう。
善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺の航空写真
この写真からは護国神社の東側には、広大な面積を持つ騎兵連隊があったことが分かります。拡大して見ましょう。

善通寺騎兵隊 拡大
善通寺11師団の騎兵連隊
騎兵連隊は、現在は四国学院のキャンパスになっています。現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。

騎兵連隊跡 四国学院
四国学院大学創立期の航空写真
この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。

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騎兵隊本部だった建物(現在はホワイトハウス)

四国学院の西側にある護国神社と乃木神社の神域や中央小学校は、歩兵43聯隊でした。

 第十一師団初代師団長であった乃木希典は、東郷平八郎とともに日露戦争における国民的英雄となります。 そして、1912(大元)年9月明治天皇の葬儀にあわせて、乃木希典、静子夫妻は殉死します、
うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて吾はゆくなり
が辞世の歌でした。遺書には、98(明10)年の西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われた責任をとるため死ぬ機会を待っていたことが書かれていました。

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 翌年1913年 中央乃木会が組織され、赤坂新坂町の屋敷の小社に夫婦の霊を祀ります。これが1919年乃木神社として認められ、戦争の拡大とともに「軍神」として厚く祀られるようになります。そのような機運の中、1932年善通寺町議会でも歩兵第43連隊跡地に乃木神社建立を決定し、1937年拝殿落成の式典が行われています。15年戦争が泥沼化していく世相の中、国定教科書には軍神として祀られていきます。 2002年に本殿・拝殿・手水舎・鳥居・社務所が登録有形文化財に登録されています。

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乃木神社の北東には、憲兵隊司令部が置かれました。

ここから四国各地に分隊が設置されました。善通寺分隊は現在の百十四銀行善通寺支店の所にありました。憲兵は軍規律維持と冶安維持の二つを任務としていました。軍服に黒の襟章、白布に赤で憲兵と染めた腕章をつけ、士官以上が任務につきました。靖国神社(現護国神社)の前を通る際には、最敬礼を行わないと叱咤を受けたといいます。
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旧善通寺西高校跡は捕虜収容所でした  

 護国神社の南側には廃校になった善通寺西高校の校舎があり、運動場側には消防署が新築されました。ここには敗戦直前に捕虜収容所が建てられました。1942年1月16日グァムの俘虜422名が多度津港に上陸して以来、終戦時まで収容されていました。他の収容所にくらべ労役の義務を課すことの出来ない将校の比率が高かったようです。
 20畳ほどの部屋に最大で20~30人が居住し、ベッドの間隔が15cmという時期もありました。戦争の激化と共に食料事情も悪化します。担当者の苦労にも拘らず収容者の体重が1年半で平均24.3kgも減少し、医薬品等も不足します。収容者は大麻山の開墾や荷役作叢日立造船(向島、因島)などでの労役につきました。
 敗戦間際になり傷痍軍人が警備員等に増えると日常的に殴打の私的制裁が行われ、戦後には関係者8名がBC戦犯とされました。

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この収容所の存在が、軍都善通寺が空襲を受けなかった理由だとされています。前半部はここまでです。